評論に対して自分の意見を持たせる

丸山義昭(新潟県公立高校)

 3年生の現代文の授業。4月の最初の教材が「判断停止の快感」(大西赤人)である。教科書(三省堂『高等学校 現代文』)は「評論」としているが、随筆的な文章である。
 内容はおおむね次の通り。

 若者に「きれい」なものへの強い執着が感じられることがある。「きれい」には二通りの意味があり、元来の「きれい」は「ビューティフル」。もう一つの意味は「クリーン」で、感覚的・観念的な清潔さを打ち出している。「クリーン」=「清潔」とは夾雑物・不純物のない状態のことである。現代の「清潔願望」は、表面的な「きれい」さの幻想を追い求めているにすぎない。現代の「清潔願望」は実利的な「清潔」とは相当に異なって、「快楽としての清潔」と化しているかもしれない。人間にとって「清潔」は本能的な快楽であり、夾雑物・不純物のない、異分子を排除した統一感・一体感においては、個別の判断を必要とせず、その場の状況をひたすら無批判にまるごと受け入れ、浸っていればよい。
 統一され一体化した多数の人間が、緊密に同じ行動を取ると、厄介な均衡の美まで生まれる。そういう風景を見て眉をひそめる人々も少なからずいるが、それは「理」の勝った反応で、いったんは爽快な感覚を催しながら、改めて批判にとりかかっているのではないか。
「清潔」の追求は異分子を忌み嫌う以上、苦もなく差別と結びつく価値観である。そこで「清潔願望」=「きれい」の過大評価を民主主義に立つ平等意識によって攻撃し、異分子を包み込む必要性を説くことは容易だ。しかし、それでは「『きたない』よりは『きれい』なほうが気持ちがいいから」というすべての理屈を超えた快楽へのもたれかかりを食い止めることは困難であろう。そうなると、ここはやはり「きたない」と周りから判定された側ががんばって消毒殺菌されてしまうことなく自己主張しなければならない。自然界にも「耐性菌」というものがいるのだから、「清潔」の追求が進む中で、案外しぶとく自らを保持していくことも、十分可能なはずだ。

 この教材の「学習の手引き」に「この文章を読んで感じたこと、考えたことを800字程度で自由に書いてみよう」という課題が指示してあったので、授業の最後に原稿用紙を配り、書かせた。
 その中から各クラス数人ずつの文章をプリントに載せ、そこには私のコメントも付けた。プリント紙上における生徒と私の対話という形になるようにしたわけである。なかなか鋭い感想・意見もあった。そのプリントをそのまま次に掲載する。
「判断停止の快感」(大西赤人)を読んで感じたこと、考えたこと

▼は私(丸山)のコメントです。

3年A組

○雑誌も調べたわけでもないのに下にあるものはきれいだ、と自分で判断して思い込んで下から取っているにすぎない。それが真の清潔でないことは確かである。人間は自分の都合のいいように考え、それを合理化していくものだと思う。そして最後に作者は、きたないと周りから判定された側が自己主張をがんばるべきだと言っている。きちんとそういった行動がとれるなら、いじめとかもなくなるのだろうと、いいことだと思った。
▼きたないと判定された側が自己主張をがんばるだけでは、いじめはなくならない。ほかに何が必要だろうか。(大西さんの文章に欠けているのはその点である。)

○現代の人々がこのように「クリーン」にひきつけられるのは、現代が豊かになってきたことが関係しているのではないかと私は思う。(略)私は「きれい」ということばを「クリーン」と取り、清潔を重要視することは良いことだと思う。しかし、そのことで健康を害したり、地球破壊に発展していることも事実である。ゆえに、清潔願望をいだきつつも、自分自身のこと・生物一人一人のこと・地球のことを十分に考え、より良い環境を創っていくことが大切であると私は考える。
▼文明化が「クリーン」志向を生み出した。過剰な「清潔」志向は現代の文明病のようなものです。「しかし」以降も鋭い指摘。過度の清潔願望は、結局我が身を滅ぼす。

○現代人は、みんな一緒というか、百人中一人になりたくないと思っているはずで、まさに、統一され一体化しているのが理想みたいだ。実際にぼくも、例えば校歌を歌うときに、一人で応援団みたく声などはりあげたくないし、『普通』がいい。
▼やはり「普通」が安心なのです。「普通」であれば排除されませんから。

○見た目だけできれいかきたないかを判断し、そしてその何の確信もない判断が、時には他者を傷つける。人間は必ずどこかに偏見の目を持っていて、必ずどこかで他者を見下して生きている。勝手に他者の価値をはかり、決めつける。私は筆者より苦しい差別を受けた経験はないので、自らを「きたない」と分類する作者の心情は完璧には理解できない。だが、彼らのような、世間的に「弱者」と言われる人間を守ることはできる。人々が本当の「きれい」が解った時、日本は変わることができると思う。
▼確かに、世間的に「弱者」「少数者」と言われる人間と一緒に闘っていくことはできます。また、いつなんどき自分自身が「弱者」「少数者」になるかも知れません。文明化はやむをえないとしても、文明の質には常にチェックの目が必要です。

○筆者の主張する「きたないと判断されてしまった者ががんばる」というのは、実際にそう判断されてきた人々が昔からずっとやってきていることだと思うので、大事なのは、過剰な「きれい」さへの幻想を払拭するための正しい教育なのではないかと思った。「きたない」と判断された人々がいくらがんばっても、人々がきれいさへのもたれかかりが進行してしまっては、終りのないおいかけっこみたいになってしまう。「きれい」の追求に歯止めをかける必要があると私は思う。結論にあまり重みを感じられなかったというのが正直な感想だ。
▼その通りですが、昔は教育が足りなくて、がんばるべき人もがんばることができなかった例が多いし、「きたない」と判断する側もそういう判断をやめることができなかったわけです。ただ、がんばった人たちがいて、随分変わってきたのは確か。しかし、この教育は学校教育だけではきわめて不十分だと考えます。いまはマス・メディアの存在が非常に大きいから。
 最後の指摘は非常に鋭いですね。大西さんの筆は、文明批判、企業批判、メディア批判に向かわずに、差別・排除される側の自己主張を促すことに帰結している。この結論は、第9段落で「清潔は本能的な快楽なのである」とし、「本能」ゆえに、第12段落で「すべての理屈を超えた快楽へのもたれかかりを食い止めることは困難であろう」と論を展開したことに基づくもので、そういう意味では必然的な展開であった。(もちろんこの「本能的」は「感覚的」などの意味で使われているわけだが、「本能的」では、避けられないものという意味合いが強まる。)8段落を受ける形で9段落で「清潔は文明的な快楽である」とすれば、その後の論の展開も変わったのではないだろうか。「本能」なら変えることは難しいが、「文明」なら抑制することは可能なはずだから。

○共感の多い中私が唯一否定を感じたのは、「きたない」とされたものが頑張って自己主張を、という筆者の意見だ。観念や感覚でとらえられた物事は根拠に基づいてとらえられた物事より遙かに強い力を持っていると私は思っているので、「きたない」とされてしまった人が頑張って主張しただけではその観念を変えることはできないのではないかと思う。(ではどうしたら良いかと聞かれても明確な返答はできないのだけど)
▼その観念・感覚は簡単には変えられなくとも差別や排除という行動を抑えることは(外部からでも内部からでも)できるはずです。行動が変われば、付随して観念も変わっていきます。では、差別・排除を抑えていくためにはどうしたらよいでしょうか。

3年B組

○「快楽としての清潔」はたしかにそうだけど、顕微鏡でみてバイ菌だらけだったらいくら見た目がきれいでもさすがに2人に1人はいやがると思う。だから、そこまでまだ「快楽としての清潔」におかされていないのではと思いたい。
▼顕微鏡で見て調べるということになったら、究極の「清潔」志向になりますが、実証的な分、イメージで動かされるということがなくなります。現在は、そこまでいかずにイメージを抱いてそこに安住しているというところに問題があるわけです。そして、そのイメージは作られたものですね。

○人間にとって「清潔」は本能的な快楽と書いてあるけど少しわかる気がします。でも、個別の判断を必要としないというのはあまりよくわからなかった。
▼異なる存在がいると、私たちは自分の持っている「ものの見方・感じ方」や価値観を常にその異なる存在によって揺さぶられることになります。簡単に言えば、現在の自分に安住できないような不安な気持ちになります。全員が同じであれば、そういうことがなく全体に身を任せるだけですむので安心というわけです。

○人類の歴史上、戦争は他者の排除、除菌だ。戦争を肯定する訳じゃないけど、今ある世界はその除菌でつくられた物だ。こうなってしまった以上、正すことはできないだろう。だから差別をなくすことは不可能だと、自分は思う。でも差別を許せない人は多くいる。人間は思う事はできても、実際それに従い動ける人間は多くない。人間とは不器用な存在なのだと感じた。
▼差別を許せない人が多くいるということは、人類最大の除菌、他者の排除である戦争を許せない人も大勢いるということです。かつての米ソが冷戦で終わり、本当の戦争にならなかったのも、第三次世界大戦が起こっていないのも、そういった勢力の存在が大きいからではないですか。確かに人間は不器用な存在であっても、他者の排除を許せない気持ちを、さまざまな組織や制度・法律という形で現実化して、排除や戦争を抑制してきたのではないですか。

○この行きすぎた清潔志向を食い止めるためには、「きたない」と判断された側が自己主張しなければならないと言うけれど、どうやって自己主張をしたらよいのだろう。(略)その自己主張の内容や方法をもっと具体的に明確に表現してほしかった。
▼大西さんがこの文章を書いて(新聞に)発表したということが、すでに一つの自己主張ですね。この文章は教科書教材となり、高校生の皆が読むわけですから、自己主張としては大きな効果をあげていることになります。

○外見だけで判断せずに、その内面的なものを見るということが現代人の「きれい」さに欠けていることなんだと思う。
▼「内面的なもの」を見るためには、どのような情報をどのように得るかということが大切になってくる。メディア・リテラシー(情報の読み書き能力)というのが今後は大切ですね。

○日本には今や多くの外国人が日本人と共に暮らしているが、日本は大ざっぱに言って上手く成り立っている。それに、外国人を受け入れることで得るものがあると言うことを日本は理解している。またアメリカについて言えば確かに事件事故は多いが、多様な人種が集まっていることにより〝自由な国〟と表現されている。よって私は、「清潔」とは、時代と科学技術・経済の成長と共に移り変わるものだろうと思う。だから筆者の考えはその時の考えなのではないか。
▼「上手く成り立っている」面ももちろんありますが、一方で外国人に対する差別・偏見が多い現実もあります。アメリカでもそれは根深いでしょう。それをどう考えますか。
「『清潔』とは、時代と科学技術・経済の成長と共に移り変わるものだろう」という意見は鋭いですね。今の「清潔」は文明的な概念ですから、当然そうなります。

○筆者は「清潔」が人間の本能的な快楽であると断言しているが先生同様私もそうは思わない。学校や公共の施設など、たくさんの人が利用する場などで清潔を心がけるのは常識だと思うが、自分の家や所有物に対してまでも常に清潔を求めるのは難しいし、別に清潔でないのが気にならない人もいると思うからだ。実際、普段家の外ではすごく清潔にしてるが家はものすごくきたないという人もいると思う。この筆者の文だと、人間すべてがそうなんだと決めつけて話を広げているようで、少し疑問に感じた。
▼現代人の全体的な傾向性として「清潔」志向が強まっているのは事実ではないでしょうか。どのような場合にも例外はあるわけで、「普段家の外ではすごく清潔にしてるが家はものすごくきたないという人」も確かにいるでしょう。逆のケースも少なくないと思いますが、どうでしょうか。ただ、これらの例外をもって「本能的な」ものではないと言うのには(根拠になりますから)よいですね。

○現在、世界には様々な差別問題が残っているが、人間の心理がそういうふうにできているのだから、これから先、差別というものは永久に無くならないのではないかと思う。とりわけ日本においては、「人と同じ」ということが求められる社会だから尚更だと思う。
▼その通りで確かになくならないでしょうね。でも、なくすことはできないまでも、さまざまな方策によって、少なくすること、抑えることはできるでしょう。そこに希望を見出します。

○日本は特に、集団の結び付きの強い国です。だからこそ、個人の意見、異論は協調性をくずすという考えも残っています。しかし、その理屈を超えた快楽へのもたれかかりは、あくまで自分でない他者への依存なのだから、いずれ訪れるのは没落だけではないでしょうか。
▼その通りです。自分の頭で考える「自立」ということがいかに難しいかということですね。

3年C組

○あまりに「きれい」で清潔すぎるので、今の私たちの体は弱くなっているのではないかと思う。実際、アレルギーを持っている子どもが増えたと聞くし、清潔で「きれい」すぎるのはよくないと私は思う。少しくらい、菌やほこりがあった方がそれに慣れて、そう簡単にアレルギーになったり、他の病気になったりしないと思う。消毒殺菌されていないものがすべて「汚い」とは思わない。むしろそれがいい時だってあるかもしれない。
▼その通りですね。現代人が自らを過保護にするあまりに、さまざまなものに対する「耐性」をなくしているというのは、最近とみに指摘されることです。

○本文にもあるように『きたない』よりは『きれい』なほうが気持ちがいいからだとは思うのだけれど、これを身の周りにおきかえてみると、なぜそのように思うのに学校の教室とかはきたなくてもよくなるのだろうと思いました。きっと、本や雑誌は自分のものになるからきれいなものがよく、学校はみんなでいる所だから汚れるのは当たり前などと考えているからではないかと思いました。
▼自分が直接接触する物だけにしか「きれい・きたない」の関心が向かないというのは、現代的傾向です。結局、自分にしか興味・関心がないということになります。

○いつからかわからないが、全くの他人に、間接的にでも、触れたり、触れられたりすることに嫌悪を感じるようになった。例えば、電車中で、人の手が触れるだけで不快に思ったり、つり革につかまるのを極力さけたりすることが挙げられる。社会で生きる中で、人と接触せずに生きることは不可能なことだが、この感覚はどうにもならない。
▼現代人は「自分」というものが自分の内部にあると強く感じています。その「自分」というものを守りたい、保持していきたいという欲求から、他の物・者との接触を毛嫌いするようになったと言われています。「自分」というものは他との関係の中にあって、自分を成長させたり、生き生きさせたりしてくれるものは、他の物・者であるのですが。

○この評論を読んで、私は小学生のときの社会科のテストの裏面にあったコラムを思いだした。まっすぐなきゅうりと曲がったきゅうり、そして虫食い有りとそうでないキャベツ、あなたならどちらを買うか、という問いだった。(略)しかし、後の先生の話によると、虫食い無しはいわゆる「農薬を使い育てたもの」であった。その問題には正解というものはなかったのだが、「虫が食うってことはそれだけ美味いってことなんだろうな。」と言った先生の言葉が今でも思いうかんでくる。
▼いかに私たちが外見だけで判断しているかという話ですね。「虫食い無し」というのがいかに本来は不自然なことであるか、ということ。

○私自身、外見の美しさを求めていることがよくあることに気付きました。例えば化粧で言うと、初めは、きれいに見せるためだけに行うが、やっているうちにその行為が楽しくなり快感になる。だんだんエスカレートしていき、自己満足のために行うようになる。実際私もこのような道のりを経てきました。これと同じように清潔も、快楽としての清潔に化していると感じます。見た目が良いと気持ちが良いし、見た目が美しい清潔を追求してしまうことは仕方ないと思います。
▼だんだんそれ自体が快楽になるという過程が巧く書けています。自己満足も実は幻想にすぎない。

○絶対基準はなどないのだからきたないとされている側はもっと強い自己主張をしてもいいと思うし、きれいとされている側は本当にきれいかどうかはわからず、きれいと思っているだけということに気づくべきだと思います。これで差別がなくなるとは思えませんが、少しはいい世の中になるように思えます。
▼客観的な自己認識、他者認識が大事ですね。

○筆者の言うように、見た目の「きれい」さの追求は差別意識と結びつく価値観であるということに共感できます。そのような差別意識をなくすためには、やはり見た目にとらわれず快楽に流されず、「真実」をしっかりと見すえて理性的に、中身の伴う「きれい」さを追求していく必要があると思いました。
▼その通りです。「真実」を見抜くためには、前述のようにメディア・リテラシー(情報の読み書き能力)が必要です。また、理性的にふるまうためには、理性的にふるまうようにさせる外部の強制力を持ったもの(法律とか社会的な規範)が必要になります。

 上記のプリントを教室で配り、そのまま私が読み上げた。生徒は静かにプリントに目を走らせながら聞いている。
 この「判断停止の快感」という文章を批評的に読むという観点では、「結論にあまり重みを感じられなかったというのが正直な感想だ」という生徒の感想に対して、次のようにコメントした私の文章が大事だと思っている。

 最後の指摘は非常に鋭いですね。大西さんの筆は、文明批判、企業批判、メディア批判に向かわずに、差別・排除される側の自己主張を促すことに帰結している。この結論は、第9段落で「清潔は本能的な快楽なのである」とし、「本能」ゆえに、第12段落で「すべての理屈を超えた快楽へのもたれかかりを食い止めることは困難であろう」と論を展開したことに基づくもので、そういう意味では必然的な展開であった。(もちろんこの「本能的」は「感覚的」などの意味で使われているわけだが、「本能的」では、避けられないものという意味合いが強まる。)第8段落を受ける形で第9段落で「清潔は文明的な快楽である」とすれば、その後の論の展開も変わったのではないだろうか。「本能」なら変えることは難しいが、「文明」なら抑制することは可能なはずだから。

 評論の授業では、書かせるか、話させるか(話し合いや討論をさせるか)、いずれにせよ何らかの形で生徒たちの「受け取り」を言語化させ、あるいは言語化させることにより、「受け取り」をつくらせ、それを全体で読んだり聞いたりし、教師の「受け取り」もそこでは示すという過程が欠かせないと考えている。

プロフィール

「読み」の授業研究会
「読み」の授業研究会(読み研)
「読み」の授業研究会は、子どもたちに深く豊かな国語の力を身につけさせるための方法を体系的に解明している国語科の研究会です。
2021年に設立35年を迎えました。