文芸作品(詩・小説)を教え、学ぶことの意義 ―ヴィゴツキー「美の教育」論に学ぶ―

読み研通信80号(2005.7)

柴田義松(東京大学名誉教授)

なぜ詩や小説を教え、学ぶのか

 文芸作品で何をどう教え学ぶかについては、西郷竹彦氏や大西忠治氏の研究のおかげで、だいぶんその実質的内容が明らかにされてきた。国語の授業は、「何を勉強するのかよくわからない」という、子どもたちからの悩みや訴えはかなり解消されてきたといえよう。 
 だが、詩や小説は、「何のために学ぶのか」という問いに対してはどうだろう。適切な解答が教師の側に用意されているだろうか。
 教科の好き嫌い調査をやると、たいてい「国語」は全教科のなかで一番好きでないという結果が出ている。 日本の子どもは、数学や理科についてもテストの成績は良いのに、それら教科への関心・意欲の面ではIEA(国際教育到達度評価学会)の調査などで世界最低という結果となっている。 
「何のために学ぶのか」という問いに、誠実に応え、目的意識を子どもにも持たせることは、学習を動機づけるうえで避けることのできない重要な問題である。
 詩や物語をどう読ませるかについては「構造よみ―形象(技法)よみ―主題よみ」の読み研方式が、明確な定式化を行い、かなりの成果もあげるようになってきた。だが、「読み方」の定式化は、それがうまくできていればいるほど、パターン化もされやすい。同じパターンで子どもを飽きさせないためにも、「何のために」という目的意識を子どもにも自覚させ、その読み方に主体的・能動的に取り組むように導く必要があるだろう。
 私はかねてからこんな問題意識をもっていたので、ヴィゴツキーの「美の教育」論(『教育心理学講義』一九二六年所収)を読んで大きな刺激を受け、あらためてこの問題について深く考えさせられた。

ヴィゴツキーの「美の教育」論

「心理学においても教育学においても、美育の本質・意味・目的・方法に関する問題は、今日まで完全に解決されるに至っていない」とヴィゴツキーは当時の状況を批判しているが、わが国の現状にもそのままあてはまることだろう。何しろわが国では、美育はおろか文学も教育課程のなかに正式に位置づけられたことは一度もないのだから。
 ヴィゴツキーは、いつもの論法で従来の学説や理論の批判から始めるのだが、「教育に奉仕する美意識は、常に自分とは異なる使命を果たすのであり、認識、感情、道徳的意志を教育するための手段、方法」とされてきたという。そして文芸作品を道徳教育の手段としたり、「生徒の認識を拡大する手段」とすることの問題点を指摘する。前者はともかく後者については、なお説明が必要だろう。
「文学的真実と実際の真実とは極めて複雑な関係にある。現実は、芸術の中では常にいくらかの変貌・変形をさせられており、芸術の現象から生活の現象へ、その意味を直接に転移させることは決してできない。」そうした場合、「私たちは、現実を間違って理解するばかりか、授業における純粋の美的要素をもまったく排除する恐れがある。」
 私がここですぐに連想したのは『坂の上の雲』など司馬遼太郎の一連の歴史小説である。「芸術作品は、決して現実を十分に正しくリアルに反映せず、現実の諸要素のなかに一連のまったく関係のない要素を持ち込んだ極めて複雑な加工の産物」なのだ。
 文芸作品の読み方でも吟味よみの指導が必要であることの所以を正しく指摘しているといってよいだろう。
 つぎに、文芸作品を読むことの意義を、「それが、子どもに呼び起こす満足や喜びの直接的感情に帰着させる」通説をも批判する。ここでも「芸術作品は、快楽的反応を呼びこす手段」とされているのだが、「子どもにとっては、現実の具体的体験の直接的力の方が、想像的感情よりもはるかに強い。」「楽しい」とか喜びの感情を引き起こすうえでは、お菓子とかスポーツなどの力には到底及ばないだろうというのである。
 このようにして「伝統的教育学は、美育の問題をそれに固有の目的ではなく、まったく関係のない目的をそれに押し付けようとして袋小路におちいってきた」とヴィゴツキーは批判する。 しかし、彼は「芸術の認識的、道徳的、情動的価値」をまったく否定するのではない。「それらは、すべて疑いもなく存在し得る。しかし、常に二次的モメントとして、つまり十分に美的働きを遂行した後に発生する、芸術作品のある残効(後作用)として存在するものだ」という。
 チェーホフの物語『家で』の中の例に見られるように、寓話が思いがけない道徳的効果を子どもに及ぼすことがあるが、このような「芸術性の道徳的作用は偶然的・副次的なものであるかもしれず、道徳的行為の教育をそれに基づいて行うことは、無思慮で不確かなこと」なのだ。
 芸術の認識的後作用もこれとまったく同じで、文学作品のなかに一定の歴史的・地理的事実が反映されていることも確かなので、ときに芸術作品が「何らかの現象分野に関する私たちの見方を実際に拡大し、それらを新しい目で眺め、一般化し、しばしばまったくばらばらの事実を結びつけることを可能にする。」
 また「芸術作品による満足、あるいは楽しみの快楽主義的要素も、そのような残効として存在し、私たちの感情の流れに教育的影響を及ぼすことができるけれども、それは詩や芸術の基本的作用と比べれば常に副次的なもの」なのだ。

文芸教育の目的は何か

 では、文芸教育など芸術教育の目的をヴィゴツキーはどのように考えたのか。
「子どもの創造性の教育」「芸術のあれこれの技術を教える教育」「子どもに美的鑑賞、すなわち芸術作品を知覚し味わうことの教育」といった三つの課題が立てられるだろうと言い、子どもの創造性を賛美するトルストイの教育論などを批判的に取り上げながら、これら3点についてくわしい考察を行っている。
 芸術作品の知覚(受容ないし理解)は、「決してだれにも可能なのではなく、難しい骨の折れる心理活動であり……極めて複雑な構成活動が、聞く人や見る人によって行われる。その活動は外的印象に基づいて知覚者自身が構成するものであって……私たちが芸術の対象と結びつける内容や感情のすべては、その対象に含まれているのではなくて、私たちによって持ち込まれるものであり、私たちがそれらを芸術の形象のなかに感じ取るのだ」というのが、ヴィゴツキー理論の第一の根本命題となっている。
 つまり、芸術作品の知覚は、受動的な活動ではなくて「創造的な活動」なのだ。
「芸術における創造と知覚の活動の同一性は基本的な心理学的前提」であり、「シェクスピアであることとシェクスピアを読むこととは、限りなく程度の異なる現象ではあるが……性質においてはまったく同じである。読者は詩人と(心理活動において)同じでなくてはならない。芸術作品を知覚(受容)しながら、私たちはいつもその作品をまるで新たに再創造しているようなのだ。その受容過程は、創造過程の繰り返し、再生の過程と定義することができる。」
 ヴィゴツキーがこの論文で提起している第二の基本的命題は、人間はだれもが「生来豊かな才能」をもっているという仮定である。
「人間に最初に与えられている才能の高度な水準は、おそらく心理のあらゆる分野における基本的要因であり、したがって才能の減少や喪失の例こそが説明されなくてはならない……すべての創造性教育とも同様、美の教育の課題は、通常人間には高い才能があり、偉大な創造的能力が存在するという仮定に基づかねばならず、このようにしてその能力を発達させ、保持するように教育作用をほどこし、方向づけなくてはならない。」
 そして「私たちのだれもがシェクスピアの悲劇やベートーベンの交響曲の協力者となることを可能にする創造的能力は、私たちのだれにもシェクスピアやベートーベンとなる可能性があることを明瞭に示している」とさえ言うのである。
さて、芸術教育には「創造性」と「技術」と「鑑賞」の教育という三つの課題があるのだが、これら三つは相互に関連があるし、相互に結びつかねばならない。
 トルストイは、子どもの創造性をゲーテやトルストイの創造力にも匹敵するようなものだと見ているが、そのために彼は、「芸術において高度な技量の要素が果たす巨大な意義(この技量は、だれにとっても明らかなように、教育の結果現れるものだ)を考慮していない。この技量は、芸術の技術的習熟だけでなく、はるかにより多くのもの(自分の芸術の法則に関するきめ細かな知識、様式の感覚、構成的才能、美的感覚など)を含んでいる」とヴィゴツキーはいう。
 したがって、芸術教育には、それぞれの芸術の技術の教育が必要だが、それは「美育の他の二つの路線(子ども自身の創造力とその芸術鑑賞の教養)と結びつくことが肝要であり、技術を乗り越えて創作論(創作あるいは理解すること)を教えるような技術教育のみが有益である」
 また、芸術鑑賞については、最近まで「教師もその問題の複雑さを理解せず、そこに問題があることを考えもしなかった。見て聞いて、喜びを得ること―それはまったくどのような特別の教育も必要としない、たやすい心理活動だと思われていた。しかし、これも実は普通教育の重要な目的・課題となるものである」とヴィゴツキーはいう。これもわが国の現状にそのまま当てはまる問題だろう。
「人類は芸術のなかにすばらしい巨大な経験を蓄積してきている……それ故、普通教育システムにおける美の教育について語るときには、常に子どもをこの人類の美的経験に参加させること、すなわち子どもをその不朽の芸術にじかに触れさせ、そのことを通して人類が自分の心を芸術に昇華させながら、何千年もかけてなしとげたその世界的作業のなかに子どもの心を取り入れることについて考慮することが必要である。これこそが基本的な課題であり目的なのだ。」
「そこに美の教育のもっとも重要な課題―美的反応を実現することの鍵がある。芸術は、現実を虚構の構造に変えるだけでなく、事物・対象・状況の実際的加工を行う。住宅や衣装、会話や読書、学校の祭典や遠足―これらすべてが等しく美的加工のうってつけの材料となる……創造的努力は、子どものすべての運動、すべての言葉、すべてのほほえみに浸透しなくてはならない。……この<それぞれの瞬間>の詩こそが、美の教育のもっとも重要な課題となるのではないか。」
 これ以上のくわしいことは、ヴィゴツキーの『教育心理学講義』(柴田義松他訳、新読書社、05年7月刊)に直接あたっていただきたい。そこで、ついでにこの本の内容を少し紹介しておこう。

ヴィゴツキー『教育理学講義』の特色

 この本は『芸術心理学』(1925年)と並んで彼のもっとも初期30歳前の作品であり、才気あふれる「心理学のモーツアルト」にふさわしい魅力に満ちた著作である。革命後の雰囲気がなお漂っている時代のその教育論からは、明るい未来建設への期待と情熱が伝わってくる。テーマを絞った『思考と言語』とは、趣のかなり違う教育論が展開されている。
 その特色を5点にまとめてみると、
1)「まえがき」でヴィゴツキー自身が書いているように、この本は教師が教育の現場で直面している「実践的性格の課題」にどう立ち向かうかについて心理学者の立場から「教育過程の科学的理解」に基づいて援助の手を差し伸べようとする実践的性格の書である。 
2)その実践的性格というのは、時代背景となるロシア革命(1917年)直後の社会の高揚した革命的雰囲気がなお残るなかで、新しい学校建設や教育過程の創造にどう取り組んでいくかという教師の課題に応えようとするものであり、彼が論争の主要な相手としているのは、革命前の非民主的社会体制や権威主義的教育体制である。その点では、現代日本の教師が直面している問題状況ともある程度通低するところがあるといえよう。
3)その場合のヴィゴツキーの基本的な理論的立場は、つぎのようなものである。
「教育過程の基礎には、生徒自身の活動が置かれねばならない。あらゆる教育技術は、この活動を方向づけ、調整することだけに向けられねばならない。……教師は、心理学的観点からいえば、教育的社会環境の組識者であり、その環境と生徒との相互作用の調整者、管理者である。……社会環境は教育過程の真の梃子であり、教師の役割はすべてこの梃子を制御することにある。……このようにして、教育過程は実に三側面の積極性(生徒の積極性、教師の積極性、それらの間にある環境の積極性)をおびることになる。それ故、教育過程は、何よりも柔和で穏やかな、波乱のない過程として理解してはならない。反対に、教育過程の心理学的性質は、それが極めて複雑な闘争であることを示している。そこには何千という複雑多様な力が投入されるので、教育過程は成長のゆっくりとした進化的プロセスではなく、飛躍的で革命的な、人間と世界との絶えざる格闘の過程を思わせるようなダイナミックで活発な弁証法的過程なのである。」
4)ヴィゴツキーの晩年の研究と著述は、『思考と言語』に見られるように、主に子どもの精神発達と教授-学習過程との関係の問題を扱っているが、この本で扱っている教育問題は、人格の形成に直接に関わる狭義の教育過程、すなわちわが国で訓育論とか生活指導論として論じられていることに大きく傾斜している。
5)ヴィゴツキーの心理学研究は、モスクワでの大学生時代から始まっていたと言われているが、この本は、その後帰郷して白ロシアのゴメリの中等学校や師範学校で文学、美学、論理学、心理学などの授業を担当してていた時の教師経験、特にゴメリの中等師範学校での講義を基にして書かれたものであり、ヴィゴツキーのもっとも初期の心理学研究の内容を反映している。しかし、その後に定式化された彼の精神発達に関する「文化的-歴史的アプローチ」はすでにこの本にも随所にその萌芽が現れている。その意味では、かれの理論形成の歩みをたどることができるまさに過渡期の作品として、心理学史的にも興味深い意味のある書物だといえよう。

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