読書会の試み
丸山義昭(新潟県立高校)
私(丸山)は今年「図書・視聴覚部」に配属され、図書委員会初めての試みとして読書会を企画し、図書委員の生徒たちと一緒に準備、運営した。
テキストは私の推薦で川上弘美の短編小説「神様」。高校の教科書に載っているが、本校で使っている教科書には載っていない。印刷したテキストを図書委員会で図書委員には配り、一般参加者向けには図書室に置いて、参加予定者は事前に読んでおくように、とした。
宣伝用のポスターを図書委員が作り、校内に掲示した。一般の参加者がどのくらい来てくれるか不安なためと、積極的に発言してくれる生徒を確保するために、演劇部の生徒たちに事前に働きかけ、当日の参加の確約を得ておいた。
司会の二人の生徒とは、読書会の前々日の放課後を使って、入念な打ち合わせをした。個々の部分における私の読みを話し、その上で、討論の柱をいくつも用意させた。これは参加者の方から疑問点や討論してほしい点が出された場合の「心の準備」と、参加者から出なかった場合に
司会の方から出すための準備のためである。
当日は、「図書・視聴覚部」の先生方のカンパで買ったお菓子とお茶を用意した。
参加者は四十数名。図書委員がおよそ二十四、五名。演劇部員が十名ほど、あとは一般参加者である。
私は司会の二人の後ろに座って、時々司会に指示を出した。もちろん、全体に向かっては何の発言もしていない。
読書会では、授業と違って、司会も生徒であり、ある程度自由に意見を述べることができ、また、言い放しも許される。しかし、読みの根拠はやはり問われるわけで、討論の中で読みが深まっていくことを経験できる。
小説を皆で読み深めることの面白さ、意外な発見の面白さ、小説の読みの楽しさを、授業とは違ったかたちで知ることができるだろうと考えた。
図書委員会主催
第一回 読書会 テキスト「神様」(川上弘美)
★ 読書会の記録・完全版
六月二十日(水)午後三時四五分より午後五時三〇分まで 於 図書室
司会 金井由香(三年)
関谷絵里(三年) (司会者名は仮名です。)
●「わたし」は女性なのか、男性なのか
司会 これから読書会を始めます。
A この「神様」に出てくる「わたし」は女性なのか、男性なのか。
B 根拠はあまりないですが、読んでいて女性という気はしませんでした。
C 女性か男性かはっきりしないのが気になります
D 「わたし」は男だと思います。
A 男性のイメージで読んでいたので、女性だと思って読むと、また違う見方ができて面白いと思いました。
C 「わたし」は男性だとほとんどの人が思っていたようです。女性だとすると意外性があって、とても面白いと思います。
E 「わたし」は女性の方が面白いと思います。理由は、抱擁を交わしている場面は、「男と男」より「男と女」の方が面白いからです。
●なぜ「くま」には名前がないのか
司会 第二段、第三段で何か疑問や感想はありませんか?
E なぜ「くま」には名前がないのでしょうか。
F 名前はあるけど名乗らないのではないですか。
B「名はありません」と言っているし、今後も名をなのる必要はないので、作る必要がないということでしょうね。
E 「くま」は「名をなのる必要がない」と言っていましたが、第一段で「わたし」のおじさんに世話になっているので、必要なかったわけ ではないと思います。
司会 なぜ今まで名前を作る必要がなかったのでしょうか?
E 人間世界に出てきている熊だし、しかも「わたし」の所に引っ越す前も人間と関わっているのに、名前が必要ないというのはどうしてだ と思いますか?
D 私が思ったことは、第一段の、「やはりいろいろとまわりに対する配慮が必要なのだろう」というところで、熊が人間世界に出てくるというのは珍しいので、配慮するわけですね。人間世界に出てきた変 わり者の「くま」は、周りにそんなにたくさん変わった熊はいないの で、「くま」と呼べば、その「くま」になります。だから、名前をつける必要はないのではないかなと思いました。熊が人間世界に出てくることはあまりないので、「くま」という名前だけで、その「くま」 個人みたいな感じで呼ぶようになってくるのかなと思いました。
E その「くま」は、一頭だけだとしても、名前はついていてもいいじゃないですか。それをなぜあえてつけないのか。
F 「呼びかけの言葉としては、貴方、が好き」と言っているではないですか。熊は「貴方」という言葉が好きだから、あえて名前をつけずに、「貴方」って呼ばれたいのではないですか?
●なぜ「くま」はオレンジの皮まで食べたのか
司会 第四段の川原の場面で何か疑問や感想はありませんか?
F オレンジの皮が出てきますが、誰がオレンジを持ってきたのでしょうか。どう思いますか?
A 私は、このオレンジは、川原でたまたま二人で探して、出てきたの だと思いました。理由は「食後には各自オレンジを一個ずつ」と書いてあるので、「くま」が持ってきたら、多分切ってあると思うのです。「わたし」が持ってきたとしても切ってあると思うのです。
E 「くま」が持ってきたのだとしたら、なぜオレンジを持ってきたのでしょうか。
司会 もし「わたし」だったら持ってきます。この書き方は多分まるまる一個なので、「くま」が取ってきたんだと思いました。
G 川原にオレンジがあるんですか?
司会 何でもあるからと思いまして。(笑い)
H でも、そう思ってしまうと、何の質問を出してもそういうものなのかなで終わっってしまうと思います。それは持ち物からして「くま」 が持ってきて、分けたのではないかと思います。
司会 じゃあ「くま」が持ってきたのだとしたら、なぜオレンジを持ってきたのでしょう?
H 「オレンジの皮をいただけますか」と言って食べているので、「くま」が元々オレンジ自体が好きだから「くま」が持ってきて分けたの だと思います。
司会 では、なぜ「くま」はオレンジの皮まで食べたのでしょう?
I 熊はやはり普通、皮をむいて食べたりはしないですね。それで、「くま」は瞬間的に食べたのではないかと。
司会 この川原に来た理由は、「くま」がいいところを見せようとしたからだと思います。しかも、第一段ですごく気を遣っているではないですか。その「くま」がなぜ今になって野性的な面を見せているのでしょうか。
J 野性的な面を見せていますが、背を向けて急いで皮を食べているではないですか。こう、癖みたいな感じなのではないですかね。野性的 な、本能的な。
K 「くま」が結構人間らしいことをいっぱいしてきているので、こういうところで熊らしいところを出しておきたかったのではないかなと思いました。
司会 出しておきたかったというのは?
K 野性的なところがないと、なんか熊というだけで、中身とかは人間だから、やはり熊というところの設定をちゃんと表したかったのではないかと。
司会 私は、このオレンジの皮を食べた理由は次のように考えています。「わたし」は女性だと思って読んでいるのですが、川原の場面はデートをしているのだと私は思っています。それでこの「くま」は、魚を捕ってかっこいいところを見せておいて、それでオレンジの皮を食べて、そろそろ熊らしいところを見せても平気かなと、そこを確かめるためにオレンジの皮を食べたのではないかと思いました。
L では、なんで背を向けて急いで食べたのですか。
司会 そんなの…真正面から見られてもねぇ……。
L そんな真正面から向かい合って食べているわけではないでしょう。
M 「背を向けて、いそいで皮を食べた」というところと、あと、丁寧な「くま」だけど、この「もしよろしければ……」の台詞には句読点が入っていないことから、雰囲気としても衝動的にオレンジの皮を食べていると思います。そういう習慣があったと思います。
●「くま」はなぜ平仮名表記なのか
司会 第五段について、何か意見、質問、感想はありませんか。
司会 では、この「くま」はなんで平仮名で表記してあるのでしょう。最後の方に「熊の神様のお恵みがあなたの上にも降り注ぎますように」という「熊の神様」の「熊」は漢字なのに、「くま」自身の表記はなぜ平仮名なのでしょう。
M 漢字にしたのは、すべての一般的な「熊の神様」だからだと思います。
司会 では、平仮名の「くま」はなぜ?
M 漢字で書いてしまうとなんかよそよそしいというか、その存在を動物としてしか見てない感じがするので、私だったら、平仮名にすると思います。
L すみません。第一段に戻るんですけど、「くまは、雄の成熟したくまで」であり、「くま」は平仮名ですから、種族としての「くま」じゃないと思うのです。動物としての「熊」という表現であれば、ここも漢字の「熊」でなければならないと思います。
M うーん、でも、冒頭の「くまにさそわれて」のところからすでに平仮名なので、このときすでに面識があったという考え方は、どうですか?
L それは多分その通りだと思うのすが、一般的な「熊」という意味で漢字を使っているのだったら、この「雄の成熟したくまで」の「くま」も多分漢字であるべきでは。
M 「雄の成熟したくまで」の「くま」は最初からこの「くま」のことを言っているから、平仮名だと思うのです。
司会 限定しているということ?
M そうです。
L ということはこの「雄の成熟したくま」の「くま」も、その直前の「くま」と一緒ということですか?
M そうです。
N 「わたし」のなかでの「くま」は、平仮名という、「貴方」とは呼ばずに、「くま」でも自分の中で考えているもので、そういう違いだと思います。
O そうなると、「熊の神とはどのようなものか」というところが漢字ですが、「わたし」の心情を言ったものだから、ここの「くま」も平仮名にするべきではないかなと思いました。
P ただ単に、普通の「くま」と「熊の神様」を区別しただけで、その「熊の神様」を尊敬するというか、そういう崇める意味で漢字にしたのだと思います。
司会 はい。私はこの平仮名の「くま」と「熊の神様」の漢字の「熊」というのは、ただ単に、この「神様」に出てくる「くま」と、このお話に出てこない「熊」を区別するために、平仮名と漢字にしたのではないかなと思いました。
●「くま」の故郷はどこか
司会 どうですか。他に意見などはないですか?
Q 疑問なんですけど、「くま」の「故郷の習慣」とあるんですけど、「故郷」はどこなんですか。
M 「くま」の「故郷」というのは、「熊」の社会だと思います。
司会 「熊」しかいない?
M はい。
●「故郷の習慣」は本当か
司会 次に行きます。「親しい人と別れるときの故郷の習慣なのです」のところで、これは本当に存在する習慣なのでしょうか。本当か、それともこの「くま」が作ったのか。
S 「熊」同士ってそんなことしないじゃないですか。「わたし」が女性の設定なら、そういう「くま」が作った偽りの習慣なのではないかなと思いました。
司会 作ったというのは、この女性と抱擁がしたかったから。こう、口から出た、でまかせみたいな。
S でまかせなのか分からないですけど、もっと仲良くなりたかったから。
L 「くま」の言う「習慣」とは多分嘘だと思うんですよ。同じアパートに住んでいますね。それで、「親しい人と別れるときの故郷の習慣なのです」って、じゃあ、いちいち別れるときに挨拶でこんなことしているのですかと感じるのです。そんな習慣ないのではないかと思います。だから、でまかせだと。
司会 あのー、「親しい人」というのはそこら中にいるのですか? 例えば、私がこの場にいる人みんなと親しいと思ったら、全員とやらなければならなくなりますね、この習慣を。でも、「親しい人」というのは少ないのじゃないですか。人間社会で生きていく中で、こんな、ここの全員の人と親しいなんて、おかしいと言ったら変ですけど、あり得ないですよね。だから、「くま」にとっても、この「親しい人」というのはこの場所では「わたし」だけだったから、マンションの人 たちは「親しい人」の中に入らないのではないかなと思いました。どうでしょう。
●「わたし」は「くま」のことをどう思っているのか
司会 じゃあ、もうひとつ。「わたし」のことを「親しい人」と言っているけど、「わたし」自身は「くま」のことを親しいと思っているのでしょうか。
L 最後に「悪くない一日だった」という部分で、とりあえず、親しいかどうかはともかく、好感を持てているのではないでしょうか。
T あまり好感を持っていなかったとすると、そんな簡単に抱擁なんてしないと思います。
司会 反論はないですか?
M 反論というわけでもなくて、断定はできないのですけど、全体を読んできた中で、「くま」は、「わたし」にかなり好意をあらわにしているように見えるけれども、「わたし」は割と淡泊な感じで、あまり「くま」に対する素晴らしい好印象なども書いていないし、「くま」 にこんなにお世話になって、それで「くま」から「もしお嫌ならもちろんいいのですが」などとすごく謙虚な態度に出られて、そこで、ちょっと嫌なので、というようなことは言えないので、そこまで嫌ではないのでしょうが、そんなにはっきりとした好意とも、私にはあまり 読みとれませんでした。
司会 はい。他には?
U 「またこのような機会を持ちたいものですな」の後に「わたしも頷いた」と書いてあるので、やはり楽しかったというか、いい時間だと思っているのだと思います。
司会 最後に「悪くない一日だった」という書き方をしています。なぜ、好意を、少しかも分かりませんが、示しているのに、「よい一日だった」と書かなかったのかなと思います。
V このお話が、私はこれ以上続きそうにないと思ったんですね。一日単位で見ているので。だから、そんなに好意がなくて、今日が過ぎて、この話が終わりのように受け取りました。たまに遊ぶけど、それ以上はないというように思いました。
司会 ほかには?
M けっこう「くま」に好意を持ってるという意見が多かったんですけど、でも性格なのかもしれないですけど、「わたし」は全体的に受け身なので、なんか好意を持っているにしては、精神的にも、直接的にも、自分から接触しようとしていないので、「わたし」はまあ嫌いではないけど、というぐらいだと思います
W 「くま」と一緒にハイキングなんてあり得ないじゃないですか。それで、もし、叶ったというか、あったとしても、そんなに最初から期待というか楽しみにして行く人って あまりいないと思うのです。「くま」なんて何が起こるか分からないし。それで、この「わたし」というのは、「くま」と散歩に、ハイキングに行くというのを、最初はあまりいいとは思っていなかったと思うのです。それが、なんか自分が思っていた以上に良かったから、まあ悪くない、と。
司会 私は、あの「わたし」の抱擁したときの気持ちが書いてあると思うんですよ。「くまの匂いがする。反対の頬も同じようにこすりつける」とあるじゃないですか。なんか、結構冷静ですよね、「わたし」。「熊」って危険じゃないですか。その「くま」にこう、抱擁を承知して、あれ、好意があるのかなって思ったのに、ここで冷静なことを言っているので、そこまで「くま」が思っているほど、「わたし」は「くま」のことを思っていないのではないかなと思いました
司会 この小説全体を読んで、何を示しているのかということですが、この「神様」に出てくる「くま」が切ない恋をしているのではないかなと思いました。どうでしょう?それ、おかしいのではないかというふうに思った人はいますか?
X さきほど、抱擁されたのに冷静だと言いましたね。でも冷静は冷静だけれども、「くま」が抱擁してくるということは知っているし、一日を通して、魚を捕る時は「熊」らしさがありましたが、そこまで乱暴ではなくて乱暴なことはしてこないと分かっているので、「くま」が抱擁してきてもそんなに慌てることもなく冷静に考えられたのではないかなと思います。
司会 まだまだいろんな意見や感想や質問があったと思うのですが、時間がきてしまいましたので、今日はこれで終わりたいと思います。
◎読書会の感想
○今日の読書会で、普段一人で本を読むときとは違う新しい見方がたくさんあって、とても勉強になりました。私は物語の世界に入りこんでしまって、人物の考え方とか状況について考えてしまうのですが、物語の意味や著者がどういう意図で場面を書きたかったかなど思いつかなかった新しい切り口で作品を読むことができて楽しかったです。(三年女子)
○読書会に初めて参加して、とても貴重な時間を過ごせた。自分一人では、軽く流してしまうようなところも他の人が疑問を出してそれについて全員で考えていくことで新しい見方ができるようになった。自分の考えだけでなく他の人の考えも聞けるので、さらに考えをつめていくことができた。色んな疑問や意見などがでておもしろかった。
○今日は初めて読書会に参加しました。今までこういった企画に参加したことが無かったので、参加している人達の意見を聞いて自分の意見も変わったりすることがすごく面白いなぁと思いました。主人公が男性か女性か、という根本的なことから「くま」には名前があるのかといったことなど一つについてもそれぞれ異なった意見があって、最後に読んだ時と全く印象が変わったと思います。この本には続きがあるということなので、ぜひ読んでみたいと思いました。また、次回の読書会にも進んで参加したいです。
○初めに読んだ時は「わたし」は男性であると推測していましたが、他の意見も聞くうちに、女性であると考えるようになりました。 私はこの小説の舞台である世界には「熊社会」と「人間世界」があり、その世界の存在が互いに知られたのはつい最近のことだと推測します。であるからして、シュノーケル氏は熊という動物に対していまだに差別的な視線で見ていると考えました。よって作者の言いたい事は、熊であっても人間であっても、本来、神様は一緒であるということだと思いました。
プロフィール
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