メディアリテラシーと国語 「子どもからのアクセスで読み解く」
読み研通信75号(2004.4)
高橋喜代治(三芳中学校)
一、 はじめに
前回(第2回)で、私はメディア・リテラシーの導入期の学習として、新聞のプロ野球の試合のニュースを使い「較べ読み」というメディア学習の方法について実践的に報告した。
「較べ読み」のねらいは、端的にいってて、「メディアは構成されている」というメディアの基本的概念を学ぶことにある。「構成」」というとすこし難しく聞こえるかもしれないが、簡単にいえばその中心は「事実の取捨選択」だと思っていい。ある事柄の、どの部分を選択し(取捨し)、情報として流すかということである。その取捨選択で同じだと思っていた事柄も色々に見えてくる。
スポーツの試合のように勝ち負けがはっきりした事柄は一般にどの新聞も同じように書かれていると思われがちだ。ところが、その報道の仕方は新聞各社によってまるで違う。まず使用する写真が違っている。取り上げる選手が違う。
ではどちらかがウソを報道しているのかというと、そうではない。どちらも事実なのである。つまり取り上げる事実が違っているというわけだ。取り上げる一つ一つの事実が違えば記事全体では相当の違いができる。
子どもたちは、結果がはっきりしたある野球の試合の報道を二つの新聞を較べてその違いを検討することで、「メディアは構成されている」という基本的な概念を身につけるのである。
今回はこの取捨選択という構成の学習を、子どもの側からアクセスするというの実践を報告したい。
テレビ、新聞などのメディアの社会的な機能は〈情報の伝達〉〈論評〉〈娯楽〉〈広告〉〈学習〉などが一般的に知られるところである。しかし、ジャーナリズムとしてもメディアということになれば、当然〈情報の伝達〉と〈論評〉やそれに伴う分析が重要になる。従って新聞やテレビなども中心の記事はこの2つになっていることは周知のことと思う。
しかし、注視しなければならないのはそれを報道する側の論理なのだ。このことについて鈴木みどり氏は次のようにいう。
『メディアが日常的に行っている情報の選別と構成は、少なくとも意識的におこなっている場合については、従来、情報を迅速に取捨選択し、分析を加え、分りやすく伝えるという報道のプロセスの一環で説明され、このプロセスにかかわるさまざまな問題が議論の焦点となってきた。そうした議論では、メディアの論理やジャーナリストの資質、記者クラブ等の仕組みの問題、商業的な利益を優先するメディア体質などが、様々に取り上げられた。むろん、いずれの問題も重要であるが、これまでの議論で抜け落ちていたのは、パラダイムを移行して、オーディアンス(視聴者・読者)の側からメディアによる情報の構成や選別をどのように読み解き、市民とメディアの関係をどう構築していくかという視点である。』(「メディア・リテラシーの現在と未来」101頁)
つまり、毎日の社会的、経済的、政治的出来事の報道の取捨選択に私たちは全くノータッチであり、構成されたものを一方的に受け取っているメディアを取りまくの現状への問題提起なのだ。
二、捨てられた情報はなにか
メディアが一方的な取捨選択し構成したものを、読者(生徒)の側から、その構成をどう読み解くか。
次の実践はそれをねらいとしたものである。具体的には、次の2点を学習の目標とした。
《目標》
① 情報の取捨選択に、読者として自分の意見が出せる(知りたい情報をいえる)
② なぜ、その情報が選択されなかったか推測できる。
《メディア・テキスト》
・ 子どもたちの身近なことを報道したA新聞の地方版。
・ タイトル 「三芳小で避難訓練」。
・サブタイトル 「所沢の小学生暴行事件教訓に」
《本文》
所沢市で相次いで起きた小学生への暴行事件を教訓に、隣接する三芳町の町立三芳小学校で三〇日、「不審者が乱入して教室の児童に切りつけた」という設定で避難訓練が行われた。昨年七月、上福岡の女児三人連続暴行事件も起きており、急きょ訓練を行った。
不審者役の男性教員が授業中の教室に侵入、ナイフで児童に切りつけた。担任教諭は備え付けの防犯ブザーを鳴らして隣の教室に知らせ、モップやほうきの柄で殴り、最後は駆けつけた教員二十人が取り押さえた。
また、東入間署員が不審者からの「逃げ出しの術」を実地訓練。同署生活安全課の中山昭係長(五三)が「出かける時は必ず家族に行き先を告げて行くように」と教えた。
《発問》
① もっと知りたい情報はあるか。
② 知りたい情報はなぜ書かれなかったか
《子どもがもっと知りたいこと》
①不審者役の男性教諭は何先生か
②侵入したのは何年生の教室か
③ この避難訓練に参加したのは全校生徒か
④ 参加した警察官の人数は
⑤ 犯人をほんとに殴ったのか
⑥ 「逃げ出しの術」とはどんな術なのか
⑦ 訓練をしたのは何時間目めか
⑧ 子ども達の意見や感想は
子どもたちが出した「もっと知りたいこと」は整理すると、この8項目であった。このうち①から⑥までは書いてある情報に対する説明要求である。特に①が断然多かった。自分たちが昨年まで在籍していた学校だから、犯人になった先生は誰かということがとても気になるのである。
どこの教室の授業だって子どもの知りたいことはけっこうどうでもいいようなことが多い。②③④⑤などはその最たるもので、「全校児童が参加したか」「犯人をほんとに殴ったのか」など、この記事の趣旨から見れば枝葉末節だと切り捨てることは容易だ。
しかし、この記事が本校の彼らに向けて発したもの(つまり子どもの側から見て)と仮定したとすれば、事情はにわかに別の様相を呈する。子どもたちにとって自分の弟や妹が今在籍しているこの小学校の記事は、犯人はどの教室に入ったか、まだ一年生の弟はこの避難訓練に参加したのだろうか、などは捨ててはおけぬ重要なことであり不可欠の情報にちがいないのだ。
⑦⑧は記事には書かれなかった情報である。つまり取捨選択され捨てられた情報ということになる。
《子どもの感想は何故無いのか》
⑧についての子どもたちの検討の内容を報告する。
「子どもの感想が欲しい、聞きたい」という意見はとても多くクラスの半数に達した。何故か。子どもたちが知りたい理由は
・どれくらい恐かったか、知りたい。
・訓練がほんとに役に立ったかどうか知りたい
というのである。
これは至極当然の「知りたい」要求である。どこの学校でも火事や地震のための避難訓練を恒例のように行う。しかし、外部からの侵入者から身を守るための避難訓練というのはまだ珍しい。私が勤務する町ではもちろん初めてだ。火事や地震などの訓練でも実際に火災を起こしたり、地震車に乗って揺れの強さを体験したりすることは実際によくやる。しかしそれは中学生にとって、恐いというよりはかなり面白く楽しいといった方が適切だ。
そんな彼らにとって、小学校で行われたタイムリーな「侵入者からの避難訓練」は、体験として「どれくらい恐く」「小学生たちに役にたつのか」は、とても知りたい情報なのだ。
しかし、どういうわけか、小学生たちの感想や意見は切り捨てられた。それはなぜか。生徒たちからは整理すると次のような意見が出された。
① 文字数が決めれているのだから、足りなかったのではないか。紙面の都合論。
② 掲載したいようなよい感想や意見がなかったのではないか。
③ 初めから感想を入れる予定(構想)がなかったのではないか。
このような地域の学校のイベントを取材した記事では必ず子どもの様子が報道されるのがほぼ普通である。私も他の、学校を扱った記事いくつかを調べてみたが、例外なく子どもたちの表情や様子が感想などの紹介というかたちで書かれていた。必須の情報といえる。しかし、無かった。話し合いでは「とても珍しい避難訓練なので、記者はその珍しさ特異さに目を奪われ、子ども達の様子や表情を書く用意や視点がなかったのではないか。」という構成の読み解きとなった。
三、おわりに
この授業後の生徒の感想に「新聞の記事に不足があることがわかった」という趣旨のものがいくつかあった。メディアによって伝えられる情報というものを、〈視聴者・読者〉という立場で見た時、実は一方的であるということの認識ができた証拠である。また、それは同時にメディアは取捨選択され、構成されているということが分かったということでもある。
子どもの立場からメディアの構成にアクセスするメディア・リテラシーの学習では、そのテクストが授業がうまくいくかどうかのカギとなる。子どもたちに身近で検討しやすいものというのが必須条件だ。そんなわけで今回は自分たちの出身小学校を取材した報道記事を使った。しかし適切なものを見つけるのはなかなか難しい。私は、手頃な教材となるテクストはないかと、新聞や雑誌、テレビなどに日頃から注意している。
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