物語・小説を論理的によむ、ということについて
『読み研通信』第120号(2016.7.29発行)の竹田 博雄先生の「物語・小説を論理的によむ、ということについて」を再掲します。
物語や小説で定番となっている「傍線部の人物の心情を答えよ」、あるいは、「傍線部の心情の理由を答えよ」という問いは、いったい何を読ませようとしているのか?
例えば、高校教科書に載っている「山月記」に、虎となった李徴の次のような独白がある。
今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気がついてみたら、俺はどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐ろしいことだ。今少したてば、俺の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋もれて消えてしまうだろう。
「山月記」(中島敦)
ここで、次のような問いを立てるとする。「『恐ろしいことだ』とありますが、なぜ恐ろしいことなのですか?」実際に定期考査で出題した問いでもある。代表的な誤答をあげると、
- 俺はどうして人間だったのかと考えたから。
- このままでは、自分の中の人間の心が、獣の習慣の中に埋もれてしまうから。
ともに、傍線部の前後の一文をまとめている。なぜこのような解答が出てくるのか? それは、何を読み取ることを要求している問いなのかを理解していないからである。「このときの心情とはどのような心情か?なぜこのように思うのか?」と問う設問は、一体何を読み取れと要求しているのであろうか?それは、心情にせよ、心情の理由にせよ、説明されずに描写によってのみ表現されている部分を、丁寧にたどって言語化してみなさいと尋ねているのである。
よく使われる例だが、
A「バイト代が入った」
B「腹減った」
C「仕事が終わらない」
D「俺、時間あるよ」
Bの意味は「何かおごれ」、Dの意味は「手伝おうか?」である。読み手は、何も説明されてなくても、何も書かれてなくてもAとB、CとDの間、つまり行間を読み、関連づけをすることで、B、Dの言葉の意味を解釈する。ここで、それぞれの意味をB「お腹が減って空腹である」D「時間が余っていて暇である」などど説明したら不正解である。
同じように、
①今までは、俺はどうして虎になったのかと考えていた。
↓ところが
②この間は、俺はどうして人間だったのかと考えていた。
↓
③これは恐ろしいことだ。
↓このままだと
④俺の人間の心は、獣の中に埋もれて消えてしまうだろう。
この、②と③を関連づけるのである。
①今までは、俺はどうして虎になったのかと考えていた。
↓ところが
②この間は、俺はどうして人間だったのかと考えていた。
↓
この考え方は
◎( )ということを意味する。
↓
③これは恐ろしいことだ。
↓このままだと
④俺の人間の心は、獣の中に埋もれて消えてしまうだろう。
つまり、書かれてはいないが、②と③の間を丁寧にたどって補えと問うているのである。ここは、②からつながり、③へとつながらないといけないというのが解答の基準となる。よって答えは、例えば「もはや虎としての立場で自分のことを考え始めてしまっているから」などとならねばならない。
そもそも、物語、小説では、心情の冗漫な説明はしない。人物等の描写を大胆に、或いは微妙に展開することで、人物の心情を表現し、その変化の推移を描く。それは、行為、動作、背景、関係、風景等々、様々なものに象徴される。つまり人物の心情やその理由を尋ねるということは、いわば、象徴され飛躍している描写の間を埋めるという思考なのだといえる。それが、物語における「論理をよむ」ということの意味である。
ごんは、ばたりとたおれました。
「ごんぎつね」(新見南吉)
兵十はかけよってきました。うちの中を見てみると、土間にくりが固めて置いてあるのが、目につきました。
「おや。」
と、兵十はびっくりして、ごんに目を落としました。
問 兵十がかけよってきたのは、なぜか?
「火縄銃で仕留めたごんの姿を確かめようとしたため。」いかにも正解のようだが、不正解だ。
①ごんは、ばたりとたおれました。
↓
②兵十はかけよってきました。
↓
◎( )
↓
③うちの中を見てみると、土間にくりが固めて置いてあるのが、目につきました。
↓
④「おや。」と、兵十はびっくりして、ごんに目を落としました。
②は兵十のある心情、意図につながり、その心情、意図は、③の兵十の行為につながる。②と③の間を埋める、兵十の心情、意図とは何か?と考えるべきである。すると、ここで考え得るのは、「ごんが、今度はどんないたずらをしたのかを確かめようとしたため」ということになるのではないか。そのような意図で駆け寄ってきたから、最初に「うちの中」を見て、そして栗を見つけて、その次にごんに「目を落とし」た。そういう順番ではないのか。そう読むことのほうが「論理的」である。
物語における人物の心情を読み取る読解とは、実は、このように、書かれていない文と文の間を整合性をもって合理的にたどることだといえる。これが、物語や小説を「論理的によむ」ということだとはいえないだろうか。巷でよく聞く、今や既に古典的ともいえる国語批判の一つ、曰く「国語の答えは一つでない。心情など問えない」という批判。しかし、今回述べた考え方と方法によって、人物の心情も、実は、答えは一つ、解釈は一つ、ということができるのではないだろうか。
今回ご紹介した竹田先生の文章は、『読み研通信』に掲載されていたものです。
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