啄木短歌(二首)の分析

丸山義昭(新潟県立長岡大手高校)

 私の高校で使っている1年生の国語総合の教科書(第一学習社『新訂 国語総合 現代文編』)に啄木の短歌が三首載っている。その内の二首を授業で扱うこととなった。二首とも自分では初めて扱う歌であった。
 短歌・俳句の授業の流れは、

①視写
②音読
③難語句・文法・技法
④構造よみ(起承転結で把握する)
⑤形象よみ(時・場・人物・事件設定を読みとる)
⑥主題・通釈
⑦感想

をとっている。(大西忠治氏の提起されたもの。東洋館出版社『科学的な「読み」の授業入門』を参照されたい。)
 今回は、上記の③~⑤について、私の分析を提案したい。

〈作品1〉

たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽きに泣きて
三歩あゆまず

③難語句・文法・技法
三行書き
「たはむれに」→冗談に、ふざけて。
「そのあまりに」→そのあんまりに。
「軽きに」→軽いことに。
「三歩あゆまず」→一、二歩歩いたが、あまりにも軽いのに驚き、泣けてしまい、三歩とは歩けなかった。少し歩いたが、途中で歩けなくなった。

④構造よみ
【A案】
起・承 たはむれに母を背負ひて
転   そのあまり軽きに泣きて
結   三歩あゆまず

【B案】
起   たはむれに母を背負ひて
承   そのあまり軽きに泣きて
転・結 三歩あゆまず

⑤形象よみ
【時】(やらなくてよい。)
【場】(やらなくてよい。)家の中でも外でも、一緒に出かけた先でもよい。
【人物】
(1)作者はいい大人。
(2)母はその分、年老いてはいるが、自力で動けないわけではない。自分で歩けるのだが、作者が戯れに背負ってみた。母に対する親愛の情。母は恥ずかしく思いながらも、されるがままで、やはり息子を愛しているのだろう。
(3)母は年齢の割に今までの苦労が多くて、予想以上に軽くなっていた可能性。息子の自分が苦労をかけていた可能性。
(4)母親と息子は久しぶりに会った、だから負ぶってみた。毎日顔を合わせているが、普段しないことを今日、戯れにやってみた。どちらでもよい。
【事件設定】
(1)一・二行目がそろえてあって、三行目が短い→三行目が強調される。三行目の空白が余韻・余情(詠嘆)をかもし出す。三行目(第五句)にこめられた思いの強さ。三行目にこめられた嘆きと悲しみ。
(2)戯れに背負うことは、親子のふれあい。大人になっているからできることをして、母をうれしがらせたい。母に対する愛情の表現。
(3)背負って歩いたら、母の軽さを実感した。(一、二歩歩くことで軽さがより実感される。)意外なまでの軽さに驚き、悲しみ、嘆いた。うかつなことに、気づかなかった自分に対する悔い。
(4)「三歩あゆまず」→悲しみ、嘆きの深さ。今まであまり親孝行ができていなかったのかもしれない。それどころか、自分が苦労をかけ通しで、母を軽くさせていたのかもしれない。母に対する慚愧の念。申し訳ないという気持ち。
(5)語り手(短歌・俳句の場合にはそのまま作者と言ってもよい)を読む。「三歩あゆまず」→実際にあゆめなかったというよりは、「三歩あゆまず」に託された作者の思い・心情を読むことが重要。「三歩あゆまず」は、誇張法というか、虚構である可能性。それくらいの心情になったということ。
(6)母親のイメージが変わる。「自分を保護してきてくれた母」から 「苦労をしてきた母」という人物像へ。

〈作品2〉

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ

③難語句・文法・技法
三行書き
「よ」は、終助詞で詠嘆。

④構造よみ

三句切れ
【A案】
起・承 友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
転   花を買ひ来て
結   妻としたしむ

【B案】
起   友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
承   花を買ひ来て
転・結 妻としたしむ

⑤形象よみ
【時】仕事帰りということになれば、夕刻以降か。「……日よ」と言っているので、一日の内、かなりの時間が「えらく見ゆる」気持ちで支配された後のことである。
【場】家の中。
【人物】
「子らとしたしむ」ではない。子どもの喜ぶものを買ってきて、子どもの笑顔を見て、心を癒やすというパターンではない→子どもはいないのか。子どもがいても、子どもよりはまず妻なのか。また、やけ酒をする人物でもない→妻に対する愛情。妻に対する思いやり。(事件設定で扱ってもよい。)
【事件設定】
(1)一行目「友が皆吾より偉く見ゆる日よ」とはしなかった。一行目をできるだけ長くし、二・三行目との対比を強めた。
 句切れもあり、一行目から二行目への間(ま)。
 二、三行目の下の空白が余韻・余情をかもし出す。
(2)劣等感にさいなまれた一日。自分の軽率さや卑小さを自覚させられた日。
(3)「花を買ひ来て」→家からわざわざ花を買いに外に出たのか、それとも仕事や交友の帰りに買ったのか。どちらでもよいが、後者の方が自然。
(4)この「花」は、もちろん何の花でもよい。「妻としたしむ」ために花を買って来た。妻の好きな花を買って来た可能性。
(5)「妻としたしむ」とは、買ってきた花を妻とともに眺めて仲睦まじく語り合い心を通い合わせたということ。
(6)「花」と「妻」がそれぞれ二行目・三行目の頭に置かれ、「花」と「妻」がイメージ的にダブるようになっている。「妻と親しむ」と表記しないで、二・三行目をそろえた。二行目と三行目の行為の同質性。(この「花」は作家論的に読むと白百合だが、白百合と読むと、妻にふさわしい白百合、白百合が好きな妻、白百合のような妻などと読める。)
(7)友はライバルたちであり、競争相手で、「えらい」「えらくない」という価値観のもとで競う(競うという意識を持つ)相手だが、「花」「妻」というのは、それとは全く別の価値観の世界の存在である。競争とは無縁の、それ自体価値を持った(「世界にたった一つだけの花」)存在。
(8)花の美しさによって心を癒やし、妻との語らいによって心を癒やそうとしている。そこには諦め、哀感がある。
(9)このような自分と暮らしている妻に対するいたわり。自分の気持ちを分かってくれている妻へのいたわり。
(10)自分には(一緒に花の美しさを観賞できる)妻がいるという誇りによって自分の心を支えようとしたともとれる。自分が友に対して誇れるものは妻だという読み。

プロフィール

「読み」の授業研究会
「読み」の授業研究会(読み研)
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