「読み」の授業の中でのスポット文法のすすめ(2)

読み研通信89号(2007.10)

 前回に引き続き、読みの授業の中でスポット的に文法を扱うことで作品の理解が深まるような場面を提案したい。

1 「トロッコ」(芥川龍之介)の終結部から 

 「トロッコ」は、八歳の主人公「良平」が二人の「若い土工」とともに敷設中の線路伝いに遠くまで行った末、「われはもう帰んな」と突き放されて(一緒に帰ってくれるものだと勝手に良平が思い込んでいた)、一人泣きながら家まで帰ってくる、という「事件」が描かれた小説である。 
 そしてこの作品の「終結部」に相当する部分には、二十六歳になった良平の状況が次のように書かれている。

良平は二十六の年、妻子といっしょに東京へ出て来た。今ではある雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。 

 この部分、言葉の使い方にどこか違和感を覚える読み手は少なくないのではないだろうか。 
具体的には「ある雑誌社の二階に」の「に」について、むしろ「雑誌社の二階で」とした方が表現として自然な感じがしないか。しかし作者があえて「に」を用いているのには何か理由がありそうだ。中学一年生の授業で、私は次のような展開を試みる。 

T「ある雑誌社の二階に、~握っている」って少しおかしくない? 君たちだったらどう言う?」 
C「二階で」 
T「そうだよね。その方が自然だよね。芥川さんほどの言葉の達人が、なんで『二階に』って表現したんだろう?」 
C「・・・・・・???」 

〈このタイミングで次のように板書〉 
①居間(  )コーヒーを飲む。 
②居間(  )ネコがいる。 
③公園(  )サッカーをする。 
④つくば市(  )住んでいる。 

T「この中で、『で』が入るのは?」 
C「①と③」 
T「『に』が入るのは?」 
C「②と④」 
T「『で』が入るときと『に』が入るときとではどんな違いがあるかな? 述語の部分に注目してみると・・・?」 
C「『で』は「コーヒーを飲む」とか「サッカーをする」、その動作をする場所を表していて、『に』は動作っていうよりそこに存在している・・・みたいな・・・」 
T「そう! 『に』は存在の方に重点が置かれた表現なんだよ。はい、だとすると『雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている』っていう表現が表しているのは、単に校正の仕事をしている場所が雑誌社の二階だということを言っているだけじゃなくて・・・?」 
C「雑誌社の二階にいる、ということが言いたい。」 
T「そうだ。そこに存在しているっていうことに重点があるんだね。つまりここが彼の?」 
C「居場所になっている。」 
T「そう。もっと言うとそこに落ち着いちゃっている、ということだ。一時的に校正の仕事をしているっていう感じじゃないね。」 

 この読みを、その直前の「妻子といっしょに東京へ出て来た。今では~」という部分の読みと重ね合わせれば、せっかく夢を抱いて家族とともに上京したのに、何年か経っても雑誌社の二階から、つまりは人の書いたものの間違いなどを直すだけの校正の仕事から抜け出せないでいる青年・良平の姿がありありと浮かび上がってくる。そしてこの後、本文は次のように締めくくられる。 

が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出すことがある。全然何の理由もないのに?――塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある道が、細々と一筋断続している。・・・・・・ 

 「そのときの彼」とは言うまでもなく少年時代、いつ家に帰り着くか、本当に帰り着くかどうかも定かでない不安にさいなまれながら、夜の闇をもがくように走っていたあのときの自分自身である。まさに、いつこの校正の仕事から抜け出せるのか、本当に抜け出せる日がくるのかどうかという疑念を常に抱きながら仕事をしているこの二十六歳の良平と重なるのである。「雑誌社の二階に」の、たった一文字の「に」が表すものは、実は深い。 

2 短歌の授業でもスポット文法! 

 同じ「に」でも、今度は行き先、方向を表す「に」について、次の有名な短歌(石川啄木)の授業の中で考える場面を提示する。 

 ふるさとの訛なつかし 
 停車場の人ごみの中に 
 そを聴きにゆく 

T「『人ごみの中に』ってあるね。この『に』を『へ』に変えたらどうだろう?」 
C「人ごみの中へ/そを聴きにゆく」 
T「何かニュアンスが変わるね。どう変わる?」 
C「・・・・・・???。」 

〈このタイミングで次のように板書〉 
 ①学校(  )行く。 
 ②家(  )帰る。 
 ③おうち(  )帰る。 
 ④コンサート(  )行く。 
 ⑤お買い物(  )行く。 

T「『へ』と『に』のどっちが入るか考えてごらん。」 
C「①②は両方とも入る。③はどっちかって言うと『に』がいい」 
T「うん、不思議だね。『家』だと両方OKで、『おうち』もまあ『へ』も入らないことはないけど、どっちかというと『に』。これ、どうして?」 
C「なんか、『おうちに帰る』って言うとすごくホッとする感じ。」 
T「そう。『おうち』は『家』という言い方と違ってただ帰る先を示しているだけじゃなくてくつろいだり休んだりするために帰るイメージがあるね。それが『に』と結びつきやすい。④⑤は?」 
C「④もどっちかというと『に』。⑤も『に』の方がいい」 

 紙幅の都合でこの後の展開は省くが、ここで確認したいのは「へ」が単なる方角や行き先を示すのに対し、「に」はその場所に目的があって向かう場合に用いられることが多い、ということである。「ふるさとの~」の詠み手は、したがって、たまたま行った駅で「ふるさとの訛」を聞くのではない。「そを聴きに」という明確な目的があって、わざわざ普通の人なら忌み嫌うような、駅の「人ごみの中」に入ってゆくのである。詠み手の日常的な孤独感が、ひしひしと伝わってくる。

プロフィール

鈴野 高志
鈴野 高志「読み」の授業研究会 運営委員/つくばサークル
筑波大学日本語・日本文化学類卒業 同大学院教育研究科修了
茗溪学園中学校高等学校教諭/立教大学兼任講師
[専門]日本語文法教育
[趣味]落語