民間国語教育研究団体のあり方について―文芸研・読み研合同研究会の意義―

読み研通信81号(2005.10)

鶴田清司(都留文科大学)

一 民間教育研究団体のあり方

 私は、民間の国語教育研究団体における授業研究の問題点と今後のあり方について、以下の三点を指摘したことがある。(第98回全国大学国語教育学会課題研究「国語科授業研究の方法を問い直す~教師の専門的力量の形成をめざして~」『発表要旨集』2000年)

1「科学化」に潜む陥穽
 民間国語教育研究団体においては、国語教育の「科学化」という理念のもとで、指導過程・方法が「○○方式」として定式化・定型化される傾向が強かった。特に読み方教育の領域では、「教科研方式」「一読総合法」「文芸研方式」「読み研方式」「基本的指導過程」「分析批評」といった指導法が、その研究団体のシンボルとなって普及した。
 また、指導過程・方法だけでなく、教材研究レベルでも、「西郷文芸学」のように、個人の才覚や技量に基づく経験主義的な方法から脱却して、科学主義的な〈教材分析〉への道が追求された。
 「科学的『読み』の授業研究会」の創始者である大西忠治氏もまた同様であった。わざわざ「科学的」と命名したところに、そうした思いが表れている。
 そのことの意義は大きい。これによって、誰がやってもそれなりの授業ができるようになった。「国語は教え方がむずかしい」と言われているだけに、とりわけ経験の浅い国語教師にとっては福音であった。教材分析や指導方法・過程が客観化されたことで、授業づくりの《よりどころ》となったのである。ちなみに、日本女子大学の吉崎静夫氏の調査では、初任教師の半数が国語科を「教えにくい教科」と答えている(浅田匡・生田孝至・藤岡完治編『成長する教師~教師学への誘い~』一九九八年、金子書房)。
 しかし、その限界もまた認識されるべき段階に来ているのではないだろうか。そうした教材分析法や指導方法・過程の採用や追試だけでは、教材研究や授業展開がワンパターンになり、教材の持ち味が十分に発揮できない、授業がダイナミックに展開しない、子どもの自由な発想を生かし切れない、授業がマンネリ化するといった問題である。
 もともと、一九六〇年代の「授業研究」の隆盛や「教育内容の現代化」の動きの中で、「授業の科学化」や「授業理論の構築」の気運は生まれた。しかし、佐藤学氏が批判したような問題点が民間教育研究運動の中にも少なからず見られる。つまり、授業の計画や実施や評価にあたって、「教師の実践的見識」よりも「科学的技術の合理的適用」の方に関心があったのではないか。かつての教育技術法則化運動、さらに今日の日本言語技術教育学会の一部に見られる「授業のプログラム化・マニュアル化」のような極端な「技術主義」でないにしても、そこには授業の複雑さや豊かさについての認識が不十分だったのではないかという問題である。実践・研究の停滞があるとすれば、そこに起因するように思われる。
 要は、教師個人の実践的力量をいかに高めるかということである。今は亡き大村はま氏や斎藤喜博氏の追随者たちが「とてもマネできない」と言っていたが、これは「方式」以前に、すぐれた授業者に固有の実践的力量が存在することを物語っている。おそらく大西忠治氏もそうだったのであろう。
確かに「科学の成果」を〈教科内容〉や〈指導方法〉として取り込むことは大事であり、その努力や成果は評価されるべきであるが、教師の授業力がレベルアップしたかどうかは別の次元の問題なのである。

2 授業研究の停滞
 1と関わって、従来の民間国語教育研究団体においては、授業研究の本質的な問題、即ち、授業をどう見るか(授業の分析・評価)、授業記録をどう読み、どう書くかといった点で、独自の立場からの取り組みがあまり見られなかった。
 誤解を恐れずに言えば、それぞれの団体は、授業の臨床的な研究(ケース・スタディ)に本格的に取り組んでこなかったのではないか。つまり、授業の過程を「合法則的な過程」、即ち授業理論・方式の一般的適用と考えて、その枠組みの中で授業の分析・評価をすることにとどまっていたのではないか。授業における特定の状況や個々の文脈における意味、子どもたちの「学び」に何が起こっているか、その質はどのようなものかという面の検討が十分ではなかったのではないかということである。
 こうした「反省的思考」によって、ひょっとすると自分たちの授業理論・方式への見直しを迫ることになるかもしれない。その意味では、それは大変「危険な」試みでもある。しかし、真に研究的な教師(研究的な組織)であるためには、どうしても必要なのである。
 さらに、こうした臨床的な授業研究は、そもそもどういう教師像をめざすか、教師の力量形成(授業力向上)の過程や方法はどうあるべきかという根本的な問題も各研究団体に投げかけている。

3 閉鎖性・排他性
  これまでの民間国語教育研究団体は、それぞれの内部に閉じこもる傾向が強かった。もっと言えば、お互いに排他的・対立的な関係、あるいは無視・黙殺という関係が続いてきたのである。古くは「三読法」と「一読法」の論争がそうだったし、最近では「文芸研」と「法則化」の論争もそうだった。しかし、これがまた、先に述べたような実践の停滞化や閉塞化を生んでいたのではないだろうか。
 ところが最近、授業づくりネットワークや科学的「読み」の授業研究会を中心にして、相互の研究交流の機会が増えてきていることは誠に喜ばしい。旧来の「閉鎖性・排他性」を打ち破る試みである。
 最近行われた「文芸研・読み研合同研究会」はその中でも画期的な意味を持っている。単に歴史的な出来事というだけでなく、実際に参加してみて、内容面でも重要な意義があると感じた。以下では、それについての私見を述べてみたい。

二 「文芸研・読み研合同研究会」の成果と課題

1 歴史的な快挙
  文芸研と読み研の間で、合同研究会が二回開かれた。
 ・第一回合同研究会
  (2004年11月13~14日)
  テーマは、文学作品の形象論。
 ・第二回合同研究会
  (2005年6月18~19日)
  テーマは、文学作品の構造論。
 最近、夏の読み研大会に西郷竹彦氏が講師で招かれるなど、文芸研と読み研の距離が近くなっていたが、二回の合同研究会が実現したことで、その友好的な関係が決定的となった。
 相手の理論・実践から学ぼうとする真摯な態度がないと、こうした研究会はなかなか実現できるものではない。
 一で述べたように、国語教育界では、各研究団体は自分の立場(理念・方法)に固執して、閉鎖的になりがちだった。それでは実践・研究もマンネリ化してしまい、さらなる発展は望めない。その意味で、こうした研究交流の試みは画期的であり、評価されるべきである。

2 合同研究会に参加して
【第一回研究会】
 第一回合同研究会では、「ごんぎつね」を共通教材にしつつ、「形象とは何か」をめぐって、それぞれのグループから具体的な提案があった(文芸研は山中吾郎氏、読み研は柳田良雄氏と加藤郁夫氏)。私は指定討論者として、それぞれにコメントした。両者に相違点があるのは当然だが、各論レベルでは共通する部分も多いことが確認できた。例えば、うらの形象を読むこと、文字表記の形象性を読むこと、形象と形象の関係(相関性)を押さえることなどである。
 山中提案に対しては、「ごんと兵十が分かり合えない関係」が作品全体を覆っているという「形象の全一性」の説明など、多くの部分については納得できたが、「この悲劇の背景には中山様のおしろに象徴される封建的な時代と社会がある」という「形象の象徴性」については納得がいかなかった(阿部昇氏も同意見)。
 文芸研では、西郷竹彦『教師のための文芸学入門』(1968年、明治図書)以来、こうした読みを継承してきている。しかし、重要な場面で「お城」の叙述・描写が四回も出てくることの意味を考えるべきだと言われても、そもそもその形象性は薄い。封建社会の悲劇なら、もっと作品中にそうした具体的な問題が描かれるはずである、「いわし屋」にぶんなぐられるのも、栗や松茸を「神様のしわざ」にするのも、その状況ではやむを得ないことであって、けっして「人と人とがつながり合わない封建時代」のせいではない。兵十から見ると、ごんはただの「ぬすっとぎつね」なのだ。撃たれたのはそれ以外に理由はない。象徴性の分析には、このように危険な面がある(ニュー・クリティシズムが陥った「象徴狩り」は有名である)。
 以上のことは、すでに拙著『「ごんぎつね」の〈解釈〉と〈分析〉』(1993年、明治図書)でも指摘しておいた。もちろん、主体的な意味づけということで、そういう解釈も可能だし、ユニークだとも思う。当日、私の発言に対して、薄井道正氏が、授業では「謎解きの面白さ」という要素も必要であると述べていた。それについては承知しつつも、やはり疑問は残った。四〇年近く前の西郷氏の論をいまだに引きずっているのは教条的な感じがする。教師がそれにとらわれていると、授業における「典型化」や「思想化」も一面的なものになる恐れがある。これは、十人十色の意味づけをめざす「まとめよみ」の理念に反している。
 柳田提案では、展開部の形象よみの「線引き」と読みのスキル(他の表現との差異を読むなど)が具体的に示されていた。内容については納得する部分が多かった。授業記録も載っていたが、「色彩語の分析」を頭ごなしに教えるという演繹的指導ではなく、子どもが色に着目した発言(ぼろぼろの黒い着物は寂しそうな感じがする)をした際にその意義を認めてやって、読みの観点・方法として自覚させていくような帰納的指導が随所に見られて、小学校段階での〈分析〉型授業の方向性を示しているように思えた。やはり、単なる教え込みでは「読みのスキル」も身につかないだろう。
 ただ、展開部の線引きで、「ごんは見つからないようにそうっと草の深いところへ歩きよって、そこからじっとのぞいてみました」の一文に線が引かれていなかったは意外だった。これは主題(ごんと人間の疎外関係)を捉える上で重要な一文だからである。(人目を避けて行動する姿がそれ以降の場面でも反復表現されている。特に「うら」「かげ」「かくれて」というキーワードに注目したい。)
 詩の読み方に関する加藤提案に対しては、すでに『読み研紀II・IV・VI』でも書いているように、詩の場合、「起承転結」で形象の変化を読むという方法が、理論としての普遍性・汎用性に欠けていること(起承転結で分析できる作品が限られていること)、その点では西郷文芸学の方が勝っていること、また、詩の形象よみを「技法よみ」と呼んでいるのは「表現技法だけに着目する」といった誤解を与えかねないこと、「構造」の概念が狭いこと(それが「構成」のレベルにとどまっていること)を指摘した。
【第二回研究会】
 第二回合同研究会では、「一つの花」(今西祐行)に即して、文芸研から徳水博志氏、読み研から佐藤建夫氏らの報告があった。それぞれの研究会の主張や特徴がよく表れた教材分析(特に「構造」の分析が中心)であった。(なお、私は第一日目のみの参加だったので、二日目の様子・協議内容については割愛する。)
 これによって、両者の「構造」概念の相違が明確になった。文芸研は、「筋・構成・場面」を含めて考えている。それに対して、読み研は、「構造よみ」にも表れているように「事件の筋」の分析が中心である。「冒頭部・展開部・山場の部・終結部」という四部構造はそのことを示している。西郷氏は、それだけに限定するのは狭いと指摘していた。また、「クライマックス」の決定を重視しすぎると、「終結部」が「あとばなし」「後日談」のような位置づけとなり、そこの読みが甘くなるのではないかという意見(さらにそれへの反論)も出た。
 確かに文芸研は「構造」を広く捉えている。例えば、「筋」は「イメージの筋(形象相関の展開過程)」と規定されている。また、「構成」には「視点の設定」や「表現方法の選択」なども含まれている。これは色々な作品を読むときに使える汎用性の高さを意味している。これに対して、読み研方式の四部構造は特定の作品にはうまく当てはまるけれども、そうでない作品も多いという問題が生じる。「一つの花」ではうまく当てはまるからよいが、物語の前半(戦時)と後半(戦後)の場面を対比するといった方法(戦争児童文学の典型的構成に基づく分析)も求められる。作品によってはより柔軟な分析が必要になってくるだろう。
 最後に、文芸研が批判する「読解理論」の中に「読み研方式」が含まれていたのが気になった。単に「様子や気持ちを考えさせる」とか「教材を分からせる」といった読解指導とは異なっているからである。文芸研も読み研も、一定の理論・方法に基づいて作品を分析していく、それによって子どもたちの読みの力を育てていくという点では共通している。両者のちがいは、それが作品の読み方レベルにとどまるか(読み研)、人間観や世界観(ものの見方・考え方)のレベルにまで広げるか(文芸研)という点にある。私の用語を使うと、前者は〈教科内容〉を教える立場、後者は〈教育内容〉を教える立場ということになる。ここで言う〈教科内容〉とは各教科で教えるべき科学的な知識・技術の体系のことであり、〈教育内容〉とは、教科の枠組みを超えて広く指導すべき事柄(挨拶や返事の仕方から調べ方、学び方、道徳、さらに生き方までも含む)である。(詳しくは、拙著『文学教材の読解主義を超える』一九九九年、明治図書を参照)。
 次回は、授業論・授業方法をテーマにして、もっと具体的なレベルで論じ合う必要があるということが確認されている。期待したい。

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「読み」の授業研究会(読み研)
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