吟味・論争を軸に「読むこと」と「書くこと」をかかわらせる
読み研通信79号(2005.4)
1 説明的文章の読みの発展としてのリライト作文指導
説明的文章の読むことの指導においては、今まで文章を吟味するという要素は、ほとんど見られなかった。吟味には、優れた点を評価する要素と不十分な点を批判する要素とがあるが、特に後者の批判が弱かった。
子どもたちが本当の意味で主体的に文章を読んでいくためには、評価と批判を含んだ吟味の指導が是非必要である。そして、その吟味の指導には、その発展として当該の文章のリライト学習が必然的に位置づいてくる。
今まで、「読むこと」と「書くこと」との関連指導の必要性が言われてきた。しかし、実際には、木に竹を接いだような形の指導が多く、関連の必然性がもう一つ見えなかった。が、説明的文章の吟味学習を発展させる形のリライト学習は、読みの指導で発見した不十分さを、書きの指導によって乗り越えるという必然性をもっている。その意味で、このリライト指導には、吟味という論争性が内包されている。また、読むことの学習の発展であるから、時間的にも効率がよい。
リライト学習は、たとえば次のような短い段落について行うことが可能である。小学校の教科書教材の一部分である。
そこで、1985年以降、たびたび国際会議が開かれるようになった。そして、世界じゅうでフロンガスの生産や使用をできるだけはやくやめようという約束が結ばれた。(1)
この第二文は、二つの解釈を許してしまう。問題は「世界じゅう」である。この言葉が、「できるだけ早くやめよう」にかかるのか、それとも「結ばれた」にかかるのか、わかりにくいのである。
前者とすると、〈世界じゅうでフロンガスの生産や使用をできるだけ早くやめよう〉という約束が、どこかで結ばれたということになる。後者とすると〈フロンガスの生産や使用をできるだけ早くやめよう〉という約束が、世界じゅうあちこちで結ばれたということになる。「たびたび国際会議が開かれ」ているのだから、後者の可能性も十分にありうる。
これをどうしたら、わかりやすい形にできるかのリライトを、前者・後者それぞれの可能性について行う。
たとえば、前者の場合、次のようなリライトが可能である。
そこで、1985年以降、たびたび国際会議が開かれるようになった。そして、フロンガスの生産や使用をできるだけはやく世界じゅうでやめていこう、という約束が結ばれた。
リサーチ学習を組み合わせ、実際には前者なのか後者なのかを確かめさせ、その上でリライトをさせていく形もある。
より広い範囲の吟味とリライトの指導も可能である。次も教科書教材である。
魚には音が「聞こえるか」どうかを問題にしている部分である。養魚場の番人は毎朝八時に鳴る教会の鐘を合図にますにえさをやっている。そのうちに、自分が行かなくてもその時間にますが集まってくるらしいことに気づく。そこで、番人と研究者が、朝八時に番小屋に隠れて池の様子を観察する。
そのラドクリッフ博士が、養魚場のできごとを伝え聞いて、たずねてきました。博士は、初めのうちは、「ますが集まってくるのは、かねの音のためではあるまい。水にうつる番人のかげを見て集まるのだろう。」と言っていました。それで、明くる日の八時前、養魚場にやって来て、番小屋の中から、池のようすを見張っていました。
やがて、教会のかねが鳴りだすと、えさ場付近が、にわかにさわがしくなって、ますが集まってきました。口を水面に出して、たがいに他をおしのけるようにして寄り集まったため、まるで、夕立がかわいた木の葉をたたくような、やかましい水音がしています。これで魚が音を聞き分けるということが、はっきりわかったわけです。ラドクリッフ博士も、これを見て、自分の考えを変えないわけにはいきませんでした。(2)
少なくとも、ここには三つの不十分さがある。一つ目は、ますのこの実験だけをもって、「魚が音を聞き分けるということが、はっきりわかった」と言い切ってしまっている。他の魚での実験なしにここまで言うことはできないはずである。二つ目は、毎日八時にかねが鳴ることにかかわる。毎日同じ時間であると、ますたちは鐘以外の要因で集まってきている可能性がある。生物時計等の可能性である。三つ目は、「聞こえる」と「聞き分ける」の混同である。ここでは、魚は音が「聞こえるか」を問題にしていた。ところが、いつのまにか「魚が音を聞き分ける」に変わってしまっている。この観察からは「聞き分ける」とまでは言えないはずである。
この吟味にもとづいて、リライトをすると、たとえば次のようになる。
やがて、教会のかねが鳴りだすと、えさ場付近が、にわかにさわがしくなって、ますが集まってきました。
しかし、毎日同じ時間であれば、かねでなく生物時計など、別の理由で集まってくる可能性もあります。そこで、その時はわざとえさをやらないでおきました。そして、教会にお願いをして、その日だけは八時半にもかねを鳴らしてもらいました。
八時半のかねが鳴りだしました。やはり思ったとおり、この時もますが集まってきました。たがいに他をおしのけるようにして寄り集まったため、まるで、夕立がかわいた木の葉をたたくような、やかましい水音がしています。これでますは音を聞くことができるということが、わかったわけです。
このようにして、たくさんの実験・観察によって、いろいろな魚にいろいろな音を試してみますと、魚は間違いなく音を聞く力があることがわかりました。
もちろんラドクリッフは実際には右のような実験は行っていない。教会が決まった時間以外に鐘を鳴らしてくれるということはないかもしれない。これはフィクションであることを十分に確認した上で、一つの試みとしてリライトをしているということは、確認しておく必要がる。
これらの指導の過程では、様々な書くための方法・スキルを指導することが必要である。ここでは、それを詳細に示している余裕はないが、それを伴うことで、リライト学習はより効果を発揮する。
2 ディベート的作文指導
多くの文章には、本来対話性・論争性が内包されている。読み手やそこで問題としている対象との論争である。読み手は、こう述べたら納得しないかもしれない。この説明だと、読み手は混乱するかもしれない。などと、予測しつつ文章は書かれていく。だから、はじめからその対話性・論争性を前面に押し出したディベータブルな作文指導も必要である。
OECDが2000年に15歳を対象に「学習到達度調査(PISA)」を参加各国で行った。その「読解力」の問題では、落書きに関する二つの「手紙」が示されている。日本語にして四百字~五百字程度の二つの「手紙」である。(3)
一つは、「ヘルガ」の手紙で次のように始まる。
学校の壁の落書きに頭に来ています。壁から落書きを消して塗り直すのは、今度が4度目だからです。創造力という点では見上げたものだけれど、社会に余分な損失を負担させないで、自分を表現する方法を探すべきです。
もう一つは、「ソフィア」の手紙で次のように始まる。
十人十色。人の子はみんなさまざまです。世の中はコミュニケーションと広告であふれています。企業のロゴ、お店の看板、通りに面した大きくて目ざわりなポスター。こういうのは許されるのでしょうか。そう、大抵は許されます。では、落書きは許されますか。許せるという人もいれば、許せないという人もいます。
そして、「あなた自身の名前も、非行少年グループの名前も、通りで見かける大きな製作物も、一種のコミュニケーションではないかしら。」と述べる。
そして、次のような設問がある。
あなたは、この2通の手紙のどちらに賛成しますか。片方あるいは両方の手紙の内容にふれながら、自分なりの言葉を使ってあなたの答えを説明してください。
これは、学習到達度調査だが、作文指導に応用できる。二人の論争に子どもたちが参加するという形の作文指導である。 作文指導に応用する場合、どのように説得力のある文章を書き上げていくかについての丁寧な指導が必要である。
まずは、自分の立場をはっきりさせる。子どもによっては、「中間の意見だ」などと言って、自分の立場を明確にしないことがある。実際には、それも一つの選択肢であることも認めつつ、ここではその上でどちらかと言うとこちらという程度でいいから、自分の立場を決めることを指導する。
次いで、自分と逆の立場の文章の根拠を見つけ出す。ここでは、ヘルガ、ソフィア、ともに三つくらいの根拠を上げている。それをピックアップさせる。
その上で、それらへの反論をする。それも、反論対象の文章を「○○○」カギ括弧で引用しながら行う。そして、自分の立場の根拠を、示されている文章から引用する。さらに、自分のオリジナルの根拠を示す。
こういった「手紙」形式でなくとも、ある論題について、相反する二つの意見を読ませ、論争に参加する形で作文を書くという指導を、今後多様に実践していく必要がある。
〈注〉
1 『国語六上』光村図書、1993年
2 『国語五上』学校図書、1991年
3 国立教育政策研究所編『生きるための知識と技術・OECD性との学習到達度調査(PISA)2000年調査国際結果報告書』ぎょうせい