国語科カリキュラムの今昔(その1)

 12年以上「今は昔」の話になる。
 昔と言えど、毎年、国語科の「カリキュラム」は作らなければならなかった。しかし、作られたカリキュラムは、そのまま“お蔵入り”となる。とにかく、教科書の教材をあらかたこなせば、カリキュラムに基づいた授業計画は完了したことになる。教科書が変わらなければ、前の年に作ったものをコピーして表紙だけを付け替えれば、新年度のカリキュラムに生まれ変わる。「教科書が変わらなければ」というのは、教科書会社が詳細な授業の「年間計画」マニュアルを資料として示しているからである。それを学校の年間計画にあわせて、若干手直しすれば事足りていた。
 今はどうだろうか?
 今と言えど、カリキュラム作成の大筋は変わるまい。現行の教科書を見ると、相変わらず授業の「年間計画マニュアル」が資料として示されている。変わったのは、“お蔵入り”していたカリキュラムが「週案簿」として“陽の当たる”場所によみがえり、管理職の∪が押されて、先生たちをキリキリ舞いさせていることだ。カリキュラムをこなせない教師は「失格」と評価され、学力テストの結果が思わしくなければ、力量不足の学校・教師と評価される仕組みが出来上がりかけている。ないしは、仕上がりかけている。今、カリキュラムは重苦しい桎梏を伴いながら、新しい脚光を浴び始めたのである。
 ところで、カリキュラム作成の大筋が昔も今も変わらないのはなぜか?
 もともとカリキュラムとは、「子どもたちの成長と発達に必要な文化を組織した、全体的な計画とそれに基づく実践と評価を統合した営み」(田中耕治・他著『新しい時代の教育課程』有斐閣)であり、そうそう変わるものではない。しかし、国語科のカリキュラムは、長い間教材に依拠して作られてきた。教科書教材を年間の授業時数にあわせて配列した計画が国語のカリキュラムである。教材が変わっても、カリキュラム作成の大筋が変わらないのは、教材主義のカリキュラム観が一貫しているからだ。教材をより良く教えれば国語の学力は自然とつくものだ、という「信仰」が長い間続いてきた。それは、今も続いている。
 しかし、「教材をより良く教えれば国語の学力は自然とつくものだ」という「信仰」は、別の事情から崩れ始めてきた。「教材をより良く教えれば」という前提そのものがあやしくなってきたのだ。そんな余裕などあるものではない、というのが現場の声である。加えて、国語の読解力や書く力の衰えがPISAの学力調査などで浮かび上がってきた。国語の学力とは何か、ということも問題になっている。教材によって何を教えるのか、国語科の教科内容を明確にすべし、という見解である。国語のカリキュラムを教材主義から教科内容を基軸とするものに転換しようという主張である。
 今は昔、1976年に日教組中央教育課程検討委員会報告『教育課程改革試案』(一ツ橋書房)なる本が出版されている。「国語・文学」(国語科)の骨子を見ておく。
総論 1.現状と問題点
   2.国語・文学教育のあり方
    (1)国語・文学教育の位置
    (2)国語・文学教育の独自の目標
    (3)国語・文学教育充実のための必須な条件
各論(第1・2階梯=小、第3階梯=中、第4階梯=高)
   1.この段階のめあて
   2.各分野
    A 言語教育
    B 読み方教育
    C 作文教育
 読んでみるとなかなか興味深いし、参考になる。
 振り返ってみれば、これは教育課程論議が盛んに行われた時期に出版されたものである。私も海老原治善・丸木正臣氏の属する「総合学習」の検討委員会に参加していた記憶がある。しかし、不勉強で殆ど論議についていくことができなかった。
 今、私は民研の教育課程研究委員会に参加し、国語科のカリキュラムを担当している。今度は昔のような悔いを残したくないが、残念ながらもう現場を離れている。ぜひ、現場の先生方の力をお借りしながら、教育内容を基軸とした国語科のカリキュラム試案を作成したいと考えている。(今年8月刊行予定の読み研編『研究紀要?』にその考えの一端を述べましたので、ご覧いただけると幸いです。