読み研として「系統的な指導」をもっと重視しよう

 読み研は、国語科の教科内容を丁寧に追究し続けてきた。その結果、多くの成果を生み出してきている。ただし、系統性という点ではまだ弱さがある。物語・小説、説明文・論説文それぞれについて、もっと教科内容の系統性を重視すべきである。その上で、教材選択を含め系統的な指導の在り方を追究する必要がある。

「スイミー」(レオ=レオニ)(小2)のクライマックスは、スイミーたち小さな魚が大きなまぐろに勝つことが決定的となる部分「ぼくが、目になろう。」である。ここは破局から解決になっており、同時にスイミーの変容もよくわかる。「ごんぎつね」(新美南吉)(小4)では、お互いの見方のすれ違い・ズレが解消する「ごん、おまいだったのか、いつも、くりをくれたのは。」がクライマックスである。ただ、ここは破局から解決であると同時にもうすぐごんが死ぬという破局のクライマックスでもある。「わらぐつの中の神様」(杉みき子)(小5)は、「現在→過去→現在」という「錯時法」が重要な意味をもつ。クライマックスは主要人物のマサエのおばあちゃんへの見方の変容がはっきりする「うん。おばあちゃんの名前は、山田ミツ。―あっ。」だが、これは錯時法と深く関わる。「現在→過去→現在」と言っても、現在のマサエのプロットこそがより重要な位置をもつことを発見することとクライマックスの追究が深く関わる。
同じクライマックスでも少しずつ質的な進展がある。これらを意識しながら、それ以前の作品のクライマックスに振り返りつつ指導していくことで、系統性な指導は可能となる。

また、人物像についても、たとえば「スイミー」のスイミーや「きつつきの商売」(林原玉枝)(小3)のきつつきなどの主要人物に比べ「ごんぎつね」のごんの人物像は複雑で多面的である。ごんは、ひどい「いたずら」をする札付きのきつねであるが、一方で「おれと同じ、ひとりぼっちの兵十か」と共感を見せる人物でもある。また、兵十の母親が「ああ、うなぎが食べたい、うなぎが食べたいと思いなが死んだんだろう。」と、明確な根拠がもないのに、思い込んでしまと人物でもある。しかし、この思い込みはごんのやさしさ、繊細さと読むこともできるかもしれない。さらに自分で気づかれないように栗や松茸を揚げているくせに「神様にお礼を言うんじゃあ、おれは引き合わないなあ。」と不満をもつ。矛盾した見方をもつ人物でもある。
人物像についても、こういったことを意識しながら指導することで系統的な指導は可能となる。

今後、より意識的に読み研として「教科内容の系統性」また「系統的な指導」について追究を深める必要がある。(なお、この詳細は、初等教育研究会編『教育研究』2017年2月号を見ていただきたい。)