『洪庵のたいまつ』(司馬遼太郎)の教材研究 2

その1/その2/その3

 構成のよみに続くのは論理よみとなるのだが、伝記では論理ではなく、人物の生涯や事蹟を読みとるっていく。また、それに対する筆者の見方や考え方を読みとる。ここでは仮に「細部の読み」としておくが、もう少し気の利いたネーミングを考えてみたい。

2.細部の読み
〈1〉(はじめ)は、大きく三つの部分に分けられる
 ①世のため~実に美しく思えるのである。
 ②といって、洪庵は変人ではなかった。~常人のようには思われなかったかもしれない。
 ③洪庵は、備中~なんとかならないものだろうかと思った。
  
① 緒方洪庵という人物について語ること、そしてその理由をその生涯が「美しい」からであると述べている。
 世のために尽くした人の一生ほど、美しいものはない。
ここでは、特に美しい生がいを送った人について語りたい。
あふれるほどの実力がありながら、しかも他人のために生き続けた。そういう生涯は、はるかな山河のように、実に美しく思えるのである。
 緒方洪庵の名前を示し、「他人のために生き続けた」生涯を「美しい」と形容し、筆者が洪庵について語る理由を述べている。それゆえ、ここに筆者の価値観(物の考え方)も示されているといえる。
 *説明文でいう問題提示にあたり、この文章で筆者が何を(さらには何故)述べようとするかを大きく指し示す役割を持つ。

② 洪庵について、どんな医者であったか簡単に紹介 → 伝記の導入的な役割
   ・ごくふつうのおだやかな人がら(⇔常人のようには思われなかったかもしれない)
   ・蘭方の医者
   ・大坂の人

③ 洪庵の出生  ここから時間の順序で洪庵の一生が語られていく
 備中足守の武士の家に生まれる
 体が弱かったこと
        ←生年が書かれていない(はじめに江戸末期とあるので、細かい記述を避けたのではないか)
        ←洪庵の生年は、文化7年(1810年)、文政8年(1825年)に大坂蔵屋敷留守居役となった父と         共に大坂に出たという。
〈1〉のまとめ
   ・世のために尽くした人の一生は、美しい。
      → 美しい緒方洪庵の人生を語る
   ・緒方洪庵
     江戸末期の大坂の蘭方医
     おだやかな人がら
     備中(岡山)足守の武士の家の生まれ
     病弱

〈2〉(なか1)は、大きく三つの部分に分けられる
 ①人間は、人なみでない部分をもつ~少年は、蘭学特に蘭方医学を学びたいと思った。
 ②幸い、この当時、中天游~主として医学を学んだのである。
 ③中天游からすべてを学び取った後、~難しい本まで読むことができるようになった。

① 「人間は、人なみでない部分をもつということは、すばらしいことなのである。そのことが、ものを考えるばねになる。」
人なみでない部分=(洪庵が)病弱であること
 →否定的な中に肯定的なものを見出そうとする筆者の考え方が読みとれる
    *このような見方の面白さや大事さに気づかせたい。普通は人なみ優れたところはみても、劣っている     ところに目を向けてみようとしない。

 人なみでない部分をもつこと 
  ↓
 ものを考えるばね(物事を理づめで考える・科学的に考える)
  ↓
 蘭方医学を学びたい
     ← なぜ蘭方だったのか?漢方が科学的ではないとは言い切れないのではないか?
       ただ、当時において蘭方の方が科学的と受け止められたかもしれない
        ← 人体に対する科学的追究
          1754年 山脇東洋の腑分け  
          1774年 解体新書 
    
② 中天游に学ぶ
   ←中天游 天明3年(1783年) - 天保6年(1835年)。

 *ウィキペディアには中天游について次のようにある
22歳の時に江戸に出て大槻玄沢の私塾・芝蘭堂に入門、のちに京都に移り住んだ芝蘭堂四天王の一人、稲村三伯を追って師事し蘭学や蘭方医学を学んだ。師の三伯が病に伏すと天游はその才を買われ三伯の娘さだと結婚。三伯の死後は、大坂に移り妻と医所を開いて町医者となった。しかし天游は医学より究理学(科学・自然哲学)などのほうを好み、医所は妻に任せきりで蘭学に熱中していた。その後、大坂に芝蘭堂四天王橋本宗吉が開いた私塾・絲漢堂の噂を聞くとその門を叩いた。蘭学は蛮学(野蛮な学問)と蔑まれた時代、蘭学者への風当たりは酷く大坂切支丹一件、シーボルト事件を契機に弾圧が厳しくなり、師の宗吉も塾を閉鎖して一時隠棲するが、天游は大坂蘭学の灯を消さぬため公儀と対峙し続けた。天保3年(1832年)、天保の大飢饉が発生するとその対策に尽力したが、その最中の天保6年(1835年)3月26日死去。享年53。中夫妻の墓所は龍海寺(大阪市北区同心町)にあり、緒方洪庵夫妻の墓と並び、現代も緒方家子孫に懇ろに守られている。                

③ 坪井信道に学ぶ(22歳)
 「中天游からすべてを学び取った後、さらに師を求めて江戸へ行った。二十二才のときであった。」
    ここで開業するなり、中天游の助手を務めるなりしていく方が経済的にも楽ではないのか。なぜわざわ    ざ江戸に向かったのか?ここは、なぜ洪庵がお金も乏しい中で江戸に向かったのか考えさせたい。その    ことは、次の長崎に向かうこととも重なり、洪庵の向学心の強さが読みとれる。
      → 更に深く学びたいという思いがあったのではないか。

  学問(蘭方医学)に対する向上心
     ← 洪庵が江戸に出たのは、天保2年(1831年)。
       中天游では、医学が十分ではなかのではないか
    ↓
「洪庵は、坪井信道の塾で四年間学び、ついにオランダ語の難しい本まで読むことができるようになった。」
   →「江戸では、働きながら学んだ。」とあるように、洪庵は経済的にはあまり豊かではなかったと考えら     れる。そうであれば、洪庵がわざわざ江戸まで出向いたことには、彼のより深く学びたいという思い     の強さがうかがわれるのではないか。

 ついでながら、江戸時代の習慣として、えらい学者は、ふつうその自たくを塾にして、自分の学問を年わかい人々に伝えるのである。それが、社会に対する恩返しとされていた。
 → 洪庵の適塾への伏線といえる
   「社会に対する恩返し」は、「他人のために生き続けた」とも重なる部分がある。

〈3〉(なか2)は、大きく二つの部分に分けられる
① そのあと、長崎へ行った。~洪庵は長崎の町で二年学んだ。
② 二十九才の時、洪庵は大坂にもどった。~適塾は、日本の近代のためのけいこ場の一つになったのである。

① 長崎遊学(26歳)
   坪井信道のところでの学びで十分だったのではないか。なぜ長崎まで行ったのか?
    → 学問に対するさらなる向上心

 学問(蘭方医学)に対する向上心
 最先端のものを学びたい(オランダ人から直接に学ぶこともできるかもしれない)
     ←天保7年(1836年)、長崎へ遊学しオランダ人医師ニーマンのもとで医学を学ぶ。

  長崎 = 鎖国(箱の中)をしている日本にとって、世界を見ることができる唯一の所
   なぜオランダ語なのか?
     日本が交易していた唯一のヨーロッパの国がオランダ。したがって、オランダ語を通してしか、ヨーロッパ(世界)を見ることができなかった。つまり、オランダ語が唯一の西洋に通じる窓といえる。

鎖国というのは、例えば、日本人全部が真っ暗な箱の中にいるようなものだったと考えればいい。
  *鎖国を「真っ暗な箱の中」に例える  → 「たいまつ」の比喩への伏線
    →江戸時代を暗い時代、明治以降の近代を明るい時代ととらえる。ただこの見方は一面的でもある

② 大阪に戻り、開業・適塾を開く(29歳)
日本の近代が大きなげき場とすれば、明治はそのはなやかなまく開けだった。その前の江戸末期は、はいゆうたちのけいこの期間だったといえる。適塾は、日本の近代のためのけいこ場の一つになったのである。
 作者の歴史観が示されている
「適塾は、日本の近代のためのけいこ場の一つ」
  後出の大村益次郎や福沢諭吉がその例にあたる
     ← 二名ともに、大阪にゆかりがある。
     ← 大村益次郎は、1869年(明治2年) 9月4日、京都で刺客に襲われ、大阪に運ばれ、死亡。大阪市       中央区法円坂に「兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑」がある。
     ← 福沢諭吉は、天保5年12月12日(1835年1月10日)、豊前国中津藩(大分県中津市)の蔵屋敷        (現・大阪市福島区福島1丁目)で生まれる。