中2古典「敦盛の最期」の読みのポイント
内藤 賢司
この教材は、古文で書かれた部分(以下、本文という)をはさむかたちで、その前後に概略が施されている。このような書かれ方(構成の仕方)は、よくある教材提示の方法であろう。この教材は、概略部分と本文とが一つになって、「敦盛の最期」の全体を構成していると言える。
私は、本文で書かれた部分を「山場の部」と読みたい。敦盛との戦い(一騎打ち)、そして敦盛の首を取る場面である。極めて盛り上がった場面であり、展開の密度が濃く、また展開の速度も速い場面である。「山場の部」にふさわしい場面であると言える。
この前提に立って、以下二つのことを提案する。
① この教材のクライマックスは?
② 読むべき箇所は?
●「クライマックス」について。
「あはれ、弓矢取る身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずは、なにとてかかる憂きめをば見るべき。情けなうも討ちたてまつるものかな。」とかきくどき、そでを顔に押し当ててさめざめとぞ泣きゐたる。
ここは、熊谷の、おのれが武士であることの自己否定の思いが最もせり上がってきたところである。ここには、武士の家に生まれなかったならば、敦盛の首を切るというような非情なことはしなくてもよかったのにという熊谷の悔しい思いが込められている。
この熊谷の、武士であること(おのれの出自そのもの)の自己否定の思いが最もせり上がってきたところをクライマックスと読む。
●読むべき箇所について
クライマックスが上の箇所にあるとすれば、この教材における「事件」とは、熊谷の人物像の変化にこそあるといわなければならない。すなわち、武士としての熊谷 → 親(人)の情のせり上がりを受け、親(人)であることと武士であることとの間に苦しむ熊谷 → そして、武士としての己を自己否定する熊谷というように、事件は流れていくのである。
この教材は、このクライマックスに向けて仕掛けられている。そして、その後の熊谷の生き方も、そこから想定できるようになっている(→出家への道)。
このように考えると、読むべき箇所も見えてくる。以下、その概略を示す。
①「あれは大将軍とこそ見まゐらせ候へ。まさなうも敵に後ろを見せさせたまふものかな。返させたまへ。」……手柄を立てたいという武士としての思い
② わが子の小次郎がよはいほどにて、容顔まことに美麗なりければ、いづくに刀を立つべしともおぼえず。……親としての情の起こり
③「そもそもいかなる人にしてましまし候ふぞ。名のらせたまへ。助けまゐらせん。」……武士としての思いと親としての情、その両立を図ろうとする。
④「あっぱれ、大将軍や。この人一人討ちたてまつたりとも、負くべき戦に勝つべきやうもなし。また討ちたてまつらずとも、勝つべき戦に負くることもよもあらじ。小次郎が薄手負うたるをだに、直実は心苦しうこそ思ふに、この殿の父、討たれぬと聞いて、いかばかり嘆きたまはんずらん。あはれ、助けてまつらばや。」……同上
⑤「助けまゐらせんとは存じ候へども、味方の軍兵雲霞のごとく候ふ。よも逃れさせたまはじ。人手にかけまゐらせんより、同じくは、直実が手にかけまゐらせて、のちの御孝養をこそつかまつり候はめ。」……武士としての思いと親としての情、その両立の不可能性への気づき。
⑥ 熊谷あまりにいとほしくて、いづくに刀を立つべしともおぼえず、目もくれ心も消え果てて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべきことならねば、泣く泣く首をぞかいてんげる。……武士としての思いと親としての情との自己矛盾。
⑦「あはれ、弓矢取る身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずは、なにとてかかる憂きめをば見るべき。情けなうも討ちたてまつるものかな。」とかきくどき、そでを顔に押し当ててさめざめとぞ泣きゐたる。……武士である身の自己否定。
このような見取り図を得ることで、この教材の読みの指導の見通しが立つのではないか。粗っぽい提案ではあるが、何かの参考になればと思い、以上提案する。
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