「走れメロス」のクライマックスはどこか

内藤賢司(運営委員)

「走れメロス」のクライマックスはどこだろうか。この間、いろいろと考えてきたのだったが、以下私の現在の考えを提示しておきたいと思う。

 可能性としては、次の4つが考えられるだろう。

①「それだから走るのだ。……ついて来い! フィロストラトス。」

②「わたしだ、刑吏! 殺されるのは、わたしだ。 ……」……、ほどかれたのである。

③「ありがとう、友よ。」……声を放って泣いた。

④暴君ディオニスは、……「おまえらの望みはかなったぞ。……おまえらの仲間の一人にしてほしい。」

①の案について

 メロス自身の走る意味が大きく変化し・確定するところである。走る意味が明確になったと言えるところである。明確になったところは「わたしは、なんだか、もっと怖ろしく大きなもののために走っているのだ。」というところから読める。

②の案について

 メロスが刑場に到着した場面である。しかも間に合ったのである。つり上げられてゆく友の両足に、かじりつく場面である。間に合うのか間に合わないのか、読者としても一番気がかりになるところである。はらはらどきどきさせられるところである。間に合ったということで「事件」としての結着をみるところである。友の命を助け、王との約束も果たしたという場面である。

③の案について

 友と友との友情が再確認させられる場面である。互いに殴り合うという「儀式」をすることで「疑い」を払い、互いに抱き合うという、極めて感動的な場面である。

④の案について

 王の改心の場面である。メロス(やセリヌンティウス)の行為や考えが、王の心を変容させた場面である。王自身が自らの苦悩から解放される場面である。王の改心は、そのまま町の平安へとつながっていく。メロスの全面勝利が明確になった場面である。メロスの当初の思い、即ち「町を暴君の手から救うのだ。」という目的が達成された場面である。

 どの案がクライマックスとしてふさわしいか。これは何をこそ「事件」と考えるのかに関わる。私は①がいいと考える。

①について

 直情的で即自的などちらかと言えば単純正義派でしかなかったメロスの「信実」に対する考えが、走り続ける中で大きく変化し確定するところこそ「事件」の核心があるとみるべきである。町を暴君から救うことや、友の命を救うことや、王との約束を守ることなどの目的は、山場の部にきて、もはや結果の問題でしかなくなる。また、書かれ方としても、メロスが走り続ける場面の描写が分量的にも圧倒的に多く、小説全体の内容の中心を占めている。間に合う間に合わないというストーリーとしての「事件」(出来事としての事件)ではなく、走り続けるメロスの中でどういう変化が起こったのかというプロットとしての「事件」にこそ着目すべきである。書かれ方としても、メロスの走っていく過程そのものを最大限に拡張して細かく描かれている。そのメロスの内なる自己変革(「信実」の内的転換)こそが、結果として王の改心をもたらしたものであると捉える。題名もまた「走れメロス」なのである。

②について

  間に合ったという事実、そして王との約束を果たしたという事実が明確になったところである。しかし、メロスの思いの中では、それは結果でしかなかった。メロスは「間に合う、間に合わぬは問題ではないのだ。」という考えに到達していた。王とメロスとの約束、その実現という「事件」は、「事件」の枠組みではありえても、「事件」の核心・中心とはなり得ない。約束を果たす・果たさないというレベルの物語ではないのである。また、書かれ方としても、王の具体的な出番は初めと終わりの部分にしかない。

③について

 友情を再確認するところである。しかし、メロスには「人の命も問題ではないのだ」という考えに到達していた。友情物語ではないのである。「事件」の中核とはなり得ない。書かれ方としても、セリヌンティウスの出番はほとんどない。

④について

 この案もまた、結果的な出来事としての「事件」でしかないというべきである。メロスは、王がどうなろうとそれはそれでしかたのないことであった。ただ、メロスの行為や考え方が王の改心を促したのである。メロスには、暴君から町の人々を救うのだという考えはあったが、王を改心させるという思いは初めからなかった。王の改心の物語ではない。町を救うこともいつかメロスの中から消えていた。

 さて、①がクライマックスだとすると、 線引きのポイントとしては、メロスの人像が変容していくところに特に着目していかなければならない。「信実」という考えがどのように変化していくかという点である。「信実」に関わるメロスの人物像の変化、これこそがプロットとしての「事件」であるからだ。この小説の主題は、この「信実」の変化の過程をさぐる中にこそ潜んでいると思うのだ。