小説・物語のクライマックスをめぐる問題  ─「きつつきの商売」を例にプロット・ストーリー問題を再考する─

読み研通信68号(2002.7)

1 「きつつきの商売」のクライマックスはどこか

 二〇〇二年四月の読み研・運営委員会で、クライマックス論争があった。二〇〇二年の夏の大会で取り上げられる物語教材「きつつきの商売」(林原玉枝)のクライマックスをめぐる論争である。この教材は、光村図書の小学校三年の教科書に掲載されている。
 きつつきが「できたての音、すてきないい音、お聞かせします。四分音ぷ一こにつき、どれでも百リル。」という「おとや」を始める。早速、野うさぎがやってきて、「四分音ぷ分」の音を注文する。きつつきは、「ぶなの木のみきを、くちばしで力いっぱいたた」く。「コーン。」という「ぶなの木の音が、ぶなの森にこだま」する。
 ぶなの森に雨がふりはじめる。きつつきは新しいメニューを思いつく。そこへ野ねずみの家族が来て、その新しい特別メニューを注文する。その特別メニューは、なぜか「ただ」である。

「しょう知しました。」 
 きつつきは、木のうろから出て、野ねずみたちのいる場所にとび下りました。 
「さあさあ、しずかにしなさい。おとやさんの、とくとく、とくべつメニューなんだから。」 
 野ねずみは、野ねずみのおくさんと二人で、ぺちゃくちゃ言ってる子どもたちを、どうにかだまらせてから、きつつきをふりかえって言いました。 
「さあ、おねがいいたします。」 
「かしこまりました。」 
 葉っぱのかさをさした十ぴきの子ねずみたちは、きらきらしたきれいな目
を、そろってきつつきにむけました。
「さあ、いいですか。今日だけのとくべつな音です。お口をとじて、目をと
じて、聞いてください。」 
 みんなは、しいんとだまって、目をとじました。 
 目をとじると、そこらじゅうのいろんな音が、いちどに聞こえてきました。

 ぶなの葉っぱの、 
 シャバシャバシャバ。 
 地めんからの、 
 パシパシピチピチ。 
 葉っぱのかさの、 
 パリパリパリ。 
 そして、ぶなの森の、 
 ずうっとおくふかくから、 
 ドウドウドウ。 
 ザワザワワワ。 

「ああ、聞こえる、雨の音だ。」 
「ほんとだ。聞こえる。」 
「雨の音だ。」 
「へえ。」 
「うふふ。」 
 野ねずみたちは、みんな、にこにこうなずいて、それから、目を開けたりとじたりしながら、ずうっとずうっと、とくべつメニューの雨の音につつまれていたのでした。 

 右が作品の最後の場面であるが、クライマックスについて四つの意見が運営委員会で出された。

A 目をとじると、そこらじゅうのいろんな音が、いちどに聞こえてきました。

B ぶなの葉っぱの、 
  シャバシャバシャバ。 
  地めんからの、 
  パシパシピチピチ。 
  葉っぱのかさの、 
  パリパリパリ。 
  そして、ぶなの森の、 
  ずうっとおくふかくから、 
  ドウドウドウ。 
  ザワザワワワ。

C 「ああ、聞こえる、雨の音だ。」

D 「へえ。」 
  「うふふ。」

2 運営委員会でのA・B・C・Dをめぐる論争

 運営委員会では、A~Dをめぐって、次のような意見が出された。(運営委員会で出た意見を阿部が再構成した。)

「Aで『いろんな音』が一度に聞こえてきた瞬間に、特別メニューの意味がすべて明らかになる。つまり、決定的な解決になる」

「Bが特別メニューそのものなんだから、Bが解決」

「特別メニューだけでは解決にも何もならない。Cで『ああ、聞こえる、雨の音だ。』と、野ねずみたちがそれに感動することで解決になる」

「野ねずみたちが本当に感動する、喜ぶのはCよりもD『へえ。』/『うふふ。』の方だ」

 AとBが「とくべつメニュー」を重視する立場であり、CとDが「野ねずみたち」を重視する立場である。それをめぐって論争が始まる。

「この話では、結局きつつきの特別メニューの正体が何かが明らかになることが重要なはず。だとすると、CとDはクライマックスとしては遅すぎる」

「いや、特別メニューも大事かもしれないが、ここではきつつきと野ねずみの家族たちとの心の交流が主要な要素なんだから、きつつきのメニューで野ねずみがたちが『ああ、聞こえる~』とか『うふふ。』とか感動するところこそ決定的なクライマックスのはず」

「きつつきと野ねずみの交流は大事であるにしても、でもきつつきの『新しいメニュー』『とくべつメニュー』そのものが聞こえるところが感動的なんだから、C・Dでは遅すぎる」

「感動的と言えば、CだってDの『へえ。』『うふふ。』だって感動的ではないか」

 この作品の仕掛けとして、きつつきの「新しいメニュー」「とくべつメニュー」が、重要な位置を占めていることは、間違いない。「新しいメニュー」「とくべつメニュー」とは一体何なのかという【謎掛け】という要素もある。とすると、「とくべつメニュー」が実際に聞こえ、その謎が解けたという所がクライマックスか。
 しかし、その「とくべつメニュー」は、きつつきが勝手に一人で考えているだけでは意味を持たない。野ねずみたち家族が来て、そのメニューを聞き感動してくれることで大きく意味を発揮する。とすると、野ねずみたちの感動がクライマックスか。

3 クライマックスをプロットの転換点として捉え直す

 私は『読み研紀要』第3号(二○○一年)で「プロットの転化としてクライマックスを捉え直す」を書いた。そこで私が提起した問題性が運営委員会での論争でも出てきている。
 大西忠治以来、読み研では小説・物語におけるプロットとストーリーの問題を放置してきた。つまり、小説・物語におけるプロットとストーリーを明確に意識しないまま分析・解釈を行ってきた。
私は『読み研紀要』第3号でプロットとストーリーを次のように定義付けた。

 ここでは、ストーリーを〈自然の時間の順序に従って動いていく出来事のつながり〉、プロットを〈ストーリーを素材として取捨選択され連関させられ仕組まれ形象化された作品そのもの〉と私なりの定義をしておく。

 そして、「プロットとストーリーを明確に識別していくこと」と「プロットの転化・確定として『クライマックス』を捉えていくこと」を提案した。
 右に紹介した「きつつきの商売」のクライマックスをめぐっては、【「とくべつメニュー」こそが重要(AとB)】という読みとりと【野ねずみたち感動が重要(CとD)】という読みとりとがぶつかり合っていたが、ストーリーとして作品を読んでいるうちは、その決着は永遠につかない。ストーリーつまり「自然の時間の順序に従って動いていく出来事のつながり」としては、「とくべつメニュー」も「野ねずみたち」の感動も、どちらも大切であると言うことしかできない。
 しかし、プロットつまり「ストーリーを素材として取捨選択され連関させられ仕組まれ形象化された作品そのもの」として作品を読むと、新しい要素が見えてくる。どのように書かれているか、どのように形象化されているかにこだわってみるのである。
 たとえば、「とくべつメニュー」についての記述や野ねずみときつつきとの交流の記述がどれくらい繰り返されているかも、「取捨選択され連関させられ仕組まれ形象化」の一部である。だから、そこに留意することもプロットとして作品を読む場合に意味をもつ。たとえば、「ごんぎつね」の場合、兵十とごんの行き違い・すれ違い・誤解の関係性が繰り返し繰り返し作品に形象化されている。だから、その誤解が解ける部分(「ごん、おまいだったのか、いつも、くりをくれたのは。」)こそがクライマックスなのである。
 しかし、「きつつきの商売」では、「とくべつメニュー」も「野ねずみ」の家族との交流も同じように丁寧に形象化されている。クライマックスの決め手にはならない。
 そうなると、やはりA・B・C・Dそれぞれが、そのように形象化されているかを丁寧に検討するしかない。つまり、この作品は、あるいは語り手は、どこをもっとも読者にアピールする形で形象化しているかを読むのである。
 まず、Aは「いちどに聞こえてきました。」と、あまりにも説明的である。聞こえてきた様子を短くまとめ書きにしただけである。それに対して、Bは実際の音、C・Dは枠囲みの会話であり、いずれも描写性は高い。が、その中でも特に描写性が高く読み手にアピールする形で形象化されているのは、間違いなくBである。
 Bは、多くの擬音語を使って森の音を描写的に表現している。特に「シャバシャバシャバ」「パシパシピチピチ」「パリパリパリ」などは、普通はあまり見られない個性的な擬音語である。また、ここは、物語の中で唯一詩のような行換えもしている。さらに、その前後を一行空きにするという工夫もしている。二重三重に分厚い形象化がなされている。
 もちろん、ここはきつつきの「とくべつメニュー」の正体がわかり、野ねずみたちを感動させることになる転換点であるという側面も重要である。が、AでもC・Dでも、その要素は含んでいる。その要素に加え、今上げた形象化の強さ、つまりアピールの強さがBに最も強く含まれているのである。語り手、あるいは作品の言表主体はそういった描き方を選択し形象化したのである。
 このストーリーであれば、たとえば次のように(プロットとして)形象化することもできた。

 目をとじると、そこらじゅうのいんな音が、いちどに聞こえてきました。たくさんの葉っぱや地めんの音、それから風や木の音もしてきました。
 野ねずみたちは、いっしゅんだまっていましたが、いっせいに大きな声を
上げました。 
「ああ、聞こえる、聞こえる、ぶなの葉っぱのシャバシャバシャバ。」 
「そうそう聞こえる地めんからのパシパシピチピチ。」 
「すごいなすごいな葉っぱのかさのパリパリパリ。」 
「うわあっ、森のおくからドウドウドウ、ザワザワザワ、ぼくうれしいな。」
 野ねずみのこどもたちは、うれしくてうれしくて真っ赤になりました。

 もしも、右のような形象化をしていたとしたら、クライマックスは野ねずみたちの
四つの会話部分であると読むことができる。しかし、ここではそうはなっていない。
 小説・物語では、プロットとストーリーを意識し、プロットの転化としてクライマックスを捉えるということが大切なのである。