「小さな手袋」(内海隆一郎:中2「三省堂」)の導入部を読む

1.物語指導のおもしろさ

 私は物語指導のおもしろさは次の三つにあると考えている。一つは、「構造よみ」で「発端」や「クライマックス」を決定することを通して作品の主題を含めて物語全体を俯瞰すること。二つめは、「形象よみ」でクライマックスに向かってしかけられている形象を読むこと。最後は「吟味よみ」で主体的な読み手として作品と向き合うことである。ここでは、二つめの「形象よみ」(導入部)について考えてみたい。 
阿部昇氏は導入部について「〈導入部〉では、これから展開されていく事件のための枠組み・設定が中心となっていることが多い。そしてその枠組み・設定には、おもに『時』の設定・『場』の設定・『人物』の設定・それ以前にあった出来事を述べた『事件設定』などがある。さらに『話者設定』が読者に明示される。」と述べ、また、「導入部に書かれている『時・場・人物・事件設定』などの設定は、これから展開される事件の展開に向けての『仕掛け』としての意味をもっている場合が多い。そういう導入部の『仕掛け』性を形象よみで明らかにしていくことが必要である。」と述べている。(「力をつける「読み」の授業」:学事出版) 
  
2.「小さな手袋」(内海隆一郎:中2「三省堂」)の導入部 
 小学校3年生だったシホは雑木林の中で年老いたおばあさんと出会い交流を深める。おばあさんは雑木林に隣接する病院に入院している患者であった。しかし1ヶ月後、シホは祖父の死をきっかけにおばあさんとの交流を一方的に断ってしまう。それから二年半後、その病院で偶然おばあさんのことを思い出したシホは、おばあさんが不自由な手で編んだ手袋を渡すために必死でシホを探そうとしていたことを知る。おばあさんが今ではひどい認知症のために周りの人のことがわからなくなってしまっていることを知ったシホは、病院の帰りに父親である「わたし」に雑木林へ寄っていきたいと頼む。 
物語は父親である「わたし」が語り手となって語られていく。 
 導入部の形象読みでは「時」「場」「人物」「事件設定」を読むのだが、ここでは特に「場」と「人物」(話者)の設定について触れたい。 
  
3.「場」の設定について 
 この物語は「雑木林」が重要な場の設定となっている。導入部全体が「雑木林」の紹介のみで占められている。 
 この雑木林でシホはおばあさんと出会い、交流を深め雑木林へ日参するようになる。祖父の危篤の知らせを待つ間も、シホは遠慮がちに雑木林へ出かける。突然来なくなったシホを待って、いつまでもおばあさんが通い続けたのも雑木林である。そして2年半後、おばあさんとの別れが決定的になったことを知ったシホは、父親に雑木林に寄っていきたいと頼むのである。 
雑木林は二人の出会いや交流やすれ違いのすべてを見ていた。真っ直ぐにシホを思うおばあさんの愛情。それゆえ突然シホが来なくなってからのおばあさんのとまどいや不安。シホと会う前よりも深まってしまった孤独な思い。そして自分がしてしまったことへの後悔に悲しむシホの思い、等。すべてを見届けていたのがこの雑木林である。シホの成長を見守る語り手である「わたし」に次ぐ第三の視点といえる。 
 授業では、特に次の3カ所に線引きをして形象読みをする。

(1)「わたしの家から歩いて十五分ほどの所に、武蔵野のおもかげを残した雑木林がある。」 
 「十五分ほど」を読む。「一時間」でもなく「三分」でもなく「十五分」であることの意味を考える。そろそろ遊びの世界を広げ始める小学校3年生のシホにとって、無理なく通える距離と考えられる。雑木林に日参することができるための「場」の設定である。また、宮下さん(おばあさん)に頼まれてシホを探したという修道女の言葉「探した範囲からはだいぶ離れているようねえ。」にも合う。病院は雑木林に隣接しているのだがシホの家のある方向とは反対側にあり、修道女が探した範囲の想定外だったと考えられるからである。距離の仕掛けが読める。

(2)「小学校のグラウンドを三つ合わせたぐらいの面積に」 
 語り手である「わたし」がシホの目線に立ってその広さを測っているような表現である。小学生3年生にとってちょっとした広さではあるが決して迷ってはしまわない広さが設定されている。おばあさんが妖精ではないことを確かめにシホが「一人で林へ出かけた」ときも、「雑木林へ日参するようになっていた」ときも、父親である「わたし」はシホを黙って見守り続ける。そうできる前提としての広さの仕掛けがここに見られる。

(3)「木々の間を縫って、子どもが二人並んで歩けるほどの小道が林の奥へつながっている。」 
 「子どもが二人並んで歩けるほどの小道」を読む。人が繁く通ってくる場所ではないが、道に雑草が生えないくらいには人がやってきている雑木林と読める。シホがおばあさんと出会ったきっかけは、「近所の友達が飼い犬の運動につきあって」林へ行ったことである。そこで放した犬が戻ってこないので林の中を探し回ったときにおばあさんと出会う。二人が一緒にいるところを見かけた人はほとんどないことが予想され、また「やっぱりいたのね。ほんとだったのね。」という修道女の言葉からも分かるように、だれも知らない「ふたりだけの世界」を創り出していたことが読めるような場の設定となっている。

4.「人物」(話者)の設定と導入部の意味について

 導入部には人物は登場しない。冒頭の文のはじめに「わたし」が出てくるだけである。シホの父親である「わたし」が話し手となってシホの思い出を語るという設定である。例えば、シホが一人称でこのできごとを語ったとしたらどうだろうか。シホが祖父の死後おばあさんに会いにいかなくなったのはなぜなのか。2年半後病院で突然おばあさんのことを尋ねる気持ちになったのはなぜか。手袋を顔に強く押しつけておえつをもらすシホの気持ちは。そして雑木林へ寄っていきたいと言ったのはなぜなのか。シホがこの出来事を冷静に語ることができるためには時間が必要であろうが、小学生であるシホ自身には自分の気持ちを自覚し語ることはできないであろう。そのあいまいさを表現するために父親である「わたし」が語るという設定がされているのではないか。そのことがこの作品を奥行きのあるものにしていると考えられる。    
 シホのすべてが「わたし」の目を通して語られていく。読み手は、いつも「わたし」の向こう側にシホを見る。娘の心に立ち入るようなことをせずあたかかく見守る父親である「わたし」には(どんな親でもそうであろうが)シホの思いを明確に説明することはできない。そのあいまいさこそがこの話者設定とあいまってこの作品の魅力となっていると考える。 
展開部に入って「わたし」は六年前の次女にまつわる思い出を語り始める。時間的には導入部は終結部から3年半後という設定である。終結部までの形象読みを終えて改めて導入部を読むと、そこに現在のシホの存在が見えてくる。導入部には雑木林の説明が書かれているだけなのだが、現在中学3年の春を迎えているシホの姿が浮かび上がってくる。そのシホの心の中まで見えてくるようである。おばあさんとの出来事がシホの心に残したもの・・・その時は自分も精一杯でそうするしかなかったとはいえ、結果的にかけがえのない愛情を注いでくれた人をひどく傷つけてしまったこと、後悔しても取り返しの付かないことがあるものだという人生の真実を胸にしまっているシホである。 
「場」の設定である雑木林の意味が、人生の真実を知って成長するシホとオーバーラップされて読み取れる見事な構成と仕掛けをもった作品だといえる。

プロフィール

熊添 由紀子「読み」の授業研究会 運営委員/福岡八女サークル
八女市立見崎中学校
[趣味]テニス

[執筆記事]教育科学「国語教育」(明治図書)
№860(2021年8月)中学校 教科書「新教材」の教材分析・授業ガイド「クマゼミ増加の原因を探る」(光村図書2年)
№845(2020年5月)定番教材で学ぶ!場面別 説明文の指導技術・ 交流・話し合いの技術「クジラの飲み水」
№812(2017年8月)中学校 教材研究のポイントと言語活動アイデア 「モアイは語る」ー[全体を俯瞰する][詳しく見る][吟味する]
№751(2013年6月)文学作品指導における〝価値ある発問〟の具体例 比喩・反復などの表現技法をとらえさせる 他