徒然草の評価的「吟味読み」

内藤賢司(福岡・矢部中学校)

はじめに

 運営委員諸氏のすぐれた実践報告がある中で、こんなささいな実践の報告でもいいのだろうかと思いつつ、報告いたします。もうみなさんも実践してあるのかもしれません。それでも、また違った部分もあるかもしれませんので、よろしく。

徒然草の第52段、筆者の主張の部分についての評価的吟味(学年は2年生。教科書は三省堂)

 仁和寺にある法師、年寄るまで、石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、あるとき思ひ立ちて、ただ一人、かちより、詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
 さて、かたへの人にあひて、「年ごろ思ひつること、果たしはべりぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、なにごとかありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず。」とぞ言ひける。
 少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。

上記部分における指導の流れ。

教師 筆者の主張、考えはどう表現されていたのかな?
生徒 「少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。」です。
教師 そうだね。意味はどういうことだったかな?
生徒 「ささいなことにも、その道の指導者はあってほしいものである。」です。
教師 うん。そうだったね。でもこの筆者の主張は少しずれているとは思わない?それまでの文章の流れからすると、普通だったらどうまとめるのだろうか。君が兼好法師だったら、どうまとめるかな?どう主張するかな?ちよっと考えてみようか。
 班で、話し合ってごらん。
 はい、では、どんな考えが出たか、発表してください。
生徒 「わからぬときは、人に聞くべきである。」
   「前もって調べていけば失敗しない。」
   「寺社は、(参拝者のために)掲示板を設置しておくべきである。」
   「旅は、一人で行くべきではない。」
   「自分の考えをあまり過信しないがよい。」
教師 うんうん。普通だったらそんなふうにまとめるよね。でも筆者はそうはまとめなかった。そうは言わなかった。そこに、私たち読者とのずれがある。どうして、筆者はあのように述べたのだろうか。筆者の、そこに込めた思いを考えてみようか。
生徒 ………。
教師 参拝した法師を、筆者は責めてはいないね。また、その話を聞いている仁和寺の仲間たちの法師に対しても直接は責めてはいないね。だとすると、筆者の思いは?
生徒 ………。
教師 参拝した法師のような失敗は、ないのだろうか。
生徒 あっ、そうか。法師のような失敗はだれにでもよくあることなんだ。
教師 そうそう。だとすると、筆者の言っていることは? 
生徒 人はよく失敗するものである、ということかな。
教師 だから?先達とは?
生徒 人はこういう失敗をよくするものであるから、それを見通すことができる人。
教師 そういう人があればいいと言っているんだね。この仁和寺の法師仲間にもそういう人がいたらよかったね。間違えるかもしれないぞという思いで、あらかじめアドバイスしてくれるような人がおればよかったんだね。「石清水八幡宮は、極楽寺・高良大社の上にあるから、そこを間違えないように。」という先輩がいたらよい、と言っているんだね。「人は失敗するものである」という、人に対する深い認識が、兼好法師にはあるんだね。法師の失敗をなじったり、法師仲間を批判するよりも、もう一つ高い観点から、こういう主張をしているのではないかな。
 今日は、ちよっと難しいことを考えてみました。
    
おわりに 

 生徒たちにとっては、かなり難しい課題だったようである。しかし、こういう点から考察を加えることによって、古文が身近な内容を含んでいることに気づくはずである。
 そういえば、「神無月のころ」にも「この木なからましかば、と覚えしか。」とあった(三省堂の教科書にはない)。これもまた、人という者に対する深い認識に裏付けられた兼好法師の考え方である。人は、欲に支配されやすいものである。その欲を表出させてしまう「柑子の木」がなければ、その欲も出なかったであろうにということを言っている。この家の主人を正面からは責めていないのである。(もちろん、間接的な批判はあると思うが。)
 こういう「ずれ」に着目させると、面白い「吟味読み」の授業になるようである。そして、その「吟味」から、古文が身近になると同時に、古文のもつ深い味わいをも可能にするようである。
 吟味読み、ここでは肯定的な方向からの検討であった。

プロフィール

「読み」の授業研究会
「読み」の授業研究会(読み研)
「読み」の授業研究会は、子どもたちに深く豊かな国語の力を身につけさせるための方法を体系的に解明している国語科の研究会です。
2021年に設立35年を迎えました。