意欲的に読解を進める力

『読み研通信』113号より(2014.4)

1 意欲的に読解を進める力
若い先生に問われた。
「国語の授業がうまくできません。重く沈んでいて活気がなく、発問に対しては一部の女子が挙手するだけです。どうすればいいのでしょうか?」
 活気がなく、全員参加を創りだせない、特に国語がだめだと悩む先生が多いと聞く。
 このような授業の対極にある、活気に満ちた全員参加の授業。これを、どうすれば創りだせるか。
 私は今年度、六年生を担任している。二学期の最後に文学作品「川とノリオ」(教育出版)を学んだ。その際、ねらいを「子ども達が意欲的に読解を進めるような授業を創る」と定めた。このねらいにそった授業の報告することで、若い先生の疑問に答えてみる。
2 「できた、わかった」の実感を
 子ども達が意欲的に読解を進めるような授業を創りたい。そのためにはまず、子ども達に「なるほど、そうか」といった驚きや「できた、わかった」という実感を与えることではないだろうか。
 子ども達が国語を嫌う理由の一つに「何が正解なのかわからない。」というとまどいが挙げられる。算数のような明確な解答がなくて、何となくすっきりしないというわけだ。
例えば、「ごんを打ってしまったときの兵十の気持ちは?」と問われれば「『あぁ、しまった』と思いました。」とか、「『何ということをしてしまったのだろう』と後悔しています。」といった答えを述べればよい、と子ども達は思うだろう。これまでの文学作品の授業での経験から、このような問いの場合は悔恨に関する内容を答えておけば「はい、そうですね。」「なるほどそんなことも考えられますね。」とすべて正解となる、と知っているからだ。
このような問答は余程の逸脱がない限り、正解として扱われるという安心感を与える。しかし、いずれは学習意欲の減退を促すことになる。「なるほど、そうか」といった知的な興奮がないからだ。
 さらに学習の蓄積も感じることができない。根拠を持って答えた内容ではないため、「そうですね。」といわれても、勉強してかしこくなったとは思えない。子ども達の言葉でいえば「できたよ!」「そうか、わかった!」という実感、これが得られないのだ。
 教科書教材は、当然ながら当該学年の児童が理解できる内容になっている。読めばわかるのである。したがって授業では表層的な解釈を繰り返したり、前後の文脈から推量されるようなあたりさわりのない人物の気持ちを問うたりしても、それは一読すればわかるのだから、子ども達は意欲的に参加する気持ちを起こさない。
 したがって、若い先生の問いへの一つ目の答えは、一、二度読んだだけでは読み取れなかった事柄を明らかにするような授業を創ればよい、となる。
 換言すれば「なるほど、そうか」という驚きと「できた、わかった」という実感を与える授業づくりである。
 「川とノリオ」の授業ではこれを念頭におき、「読解の手立てや技法を具体的に指導する」ことを中心に授業を構想した。対比、類比といった読解の手立てや倒置、比喩、暗示、象徴といった技法の指導である。これらはすでに指導してはいるが、十分に定着されていない。既習事項を確認しながら定着をはかるようにした。
授業は毎時間、次のような流れで進めた。
①学習箇所を音読する。
②難語句を確認する。
③一人読み箇所を確認する。
④読解の手立てを含んだ学習問題を示す。
⑤手立てに関する箇所を個人で読解する。
⑥班で話し合う。
⑦全体で話し合う。
⑧各自の一人読みですぐれた読解を取り上げる。
⑨授業の感想やわかったことをノートに書く。
ここでは最後のクライマックス箇所の読解を紹介する。

白い日がさがチカチカゆれて、子供の手を引いた女の人が、葉桜の間を遠くなった。ザアザアと音を増す川のひびき。

ノリオは、またかまを使いだす。
サクッ、サクッ、サクッ、母ちゃん帰れ。(以下、略)
学習問題は「山場の部を深く読もう」である。展開部の読解では「対比で読んでみよう」とか「『神さま』とはなにか」といった読解の手立てや取り上げる言葉を指定した学習問題であったが、本時は集大成として「深く読もう」と漠然とした文言にした。
 個人での読解では次のような解釈が出された。
・「チカチカ」とは太陽の光の反射ではあ
 るが、ノリオの心の傷といったことも
 表現している。
・「ザアザア」はこの他に二か所使われて
いる。。どの場面でも心が苦しくなるこ
とを表してる。ここでは女の人と母ち
ゃんを比べて苦しくなっているのだと
思う。
 班で話し合い、次に学級全体で話し合った後、私は次のように言った。
「まだ読みが浅い。誰か『遠くなった』に着目した子はいないのか?他の言葉に置き換えて読んでごらんなさい。」
この助言で
・「遠くなった」は「通っていった」とか「歩いていった」と書いてもよい。しかし「遠くなった」というと、女の人がだんだん小さくなっていくように感じる。
・ノリオはずっと女の人を見ているのだと思う。なぜなら女の人の姿と母ちゃんの姿をだぶらせているから。
・「遠くなった」とはノリオの視界から消えるまで見ているということだ。小さな点になるまで見つめ続けるほど、心が辛かったのだと思う。
――等が子ども達から出された。
 山場の部であるこの箇所では、ノリオの悲しみが頂点に達している。これはクライマックスを見つける授業で理解している。そのため「ノリオの気持ちは?」と問えば、悲しい、辛いといった内容であることは誰でもわかる。しかし「遠くなった」という言葉を根拠に読み取ることで、悲しさ、辛さの中身がはっきりとイメージできるようになる。子ども達は漠然とつかんでいたイメージを「なるほど」とか「わかった」と感じながら理解するであろう。
 ところで、このような読解の授業を進めても、もう一歩何かが足りないと感じるとの意見もいただく。そこに足りないのは、おそらく教師のほめ言葉であろう。ほめるといってもやみくもに称賛することではない。先に述べたような一読すればわかるような問いに対する答えに「その通り、よく読めました」「はいそうです。すごいですね」とほめても、効果は薄い。しかし「遠くなった」の読みは子ども達自身が「読めた」と納得する答えである。それを「そうだ、その通りだ。よく気がついた。立派だ!」とほめる、というより追認してあげるとよい。
 ほめるには関しては、保護者の方から次のようなお手紙をいただいた。
「帰宅後、特に国語の授業の様子を『先生の質問に○○ちゃんはこう言った。△△ちゃんはこう反論した。』などと目を輝かせて聞かせてくれます。子ども達の発言に『すばらしい』『いいところに目をつけた』などとほめてくださる様で、発言することがうれしくなるようです。さらに自分の意見が答えと一致すると『やったぁ』という達成感があるようです。」
3「書く」を重視する
「できるようになった」という自信を得ると、子どもは意欲的に学習に参加するようになる。その自信を得させるには、「書く」を重視するとよい。若い先生への二つ目の答えである。
私は「うっとりとするノートづくり」を強いている。一定量書く、ていねいな字で書く、決められた時間内に書くといったことを常に言い、できるだけ細かく評価している。
ノートには自分の足跡がはっきりと刻まれる。年度当初四月のノートと、十月頃のノートを見比べると、書いた本人自身が驚くほど成長していることがわかる場合が多い。
「ほら比べてごらんなさい。これが、勉強ができるようになっている証拠だよ。」
と声をかけてあげると、子どもは納得と自信を得る。
「川とノリオ」の授業でも、書くことを重視した。ここでは毎時間のノートづくりの他に、評論文を書かせた。「川とノリオ」について原稿用紙にまとめるのである。ひとり二十枚から三十枚書いた。次のように書かせた。
①授業で勉強したことを書く。
②友達や先生の意見を聞いて「なるほど」と思ったこと。自分は気がつかなかったといったことを書く。
③友達や先生の意見を聞いて、自分の考えがさらに深まったら、そのことを書く。
 最初は「名前を読む」「父ちゃんと母ちゃんの対比を読む」というようにタイトルを指定して書かせた。国語や総合の時間を使い、原稿用紙への書き方や段落分けのやり方などを確認しながら、個別指導を重視した。作文の時間を二、三時間とった後は、宿題にした。よい作品を読み上げたり、学級通信で紹介したりすると、子ども達は意欲的に取り組んだ。
ノリオというカタカナ表記についての評論文で高橋さんは次のように書いている。
「どうしてノリオの名前が片仮名なのかが取り上げられた。田口さんは初読の感想で疑問をいだいていたようだ。ノリオにはたくさんの漢字がある。例えば『規雄』『紀思』『海苔夫』などがある。五班は『ヒロシマやナガサキと同じで片仮名にすることで印象を残すため』と言っていた。わたしは、ちがうと思った。私の意見はこうだ。漢字にしてしまうと、名前に意味が出てきてしまう。」
授業では反論できなかったが、改めて考えてみて、授業中に出された意見に反対を唱えている。
「ノリオは小さな二歳の神様だった」という文章がある。そこから何が読めるかという授業について伊久留さんは
「三つ目は合っているけれど、一つ目は少し違うと思う。子供は本当に何でもなれるわけじゃないし、第一ノリオが本当にそういう子かどうかも、わからない。したがって私は先生の意見に反対だ。」
と教師の解釈を批判してきた。
 書く楽しさがわかると、子ども達はたくさん書いてくるが、なかには「鉛筆を持つことも嫌!」というくらいに、書くことを嫌う男子もいる。そのような子は、友達の評論文をまる写しさせたり、私や友達が口頭で言うことを書きとらせたりした。少しできると大いにほめた。
「『学ぶ』とは『まねる』からきている言葉だよ。一文字も間違わずにこの文を写し取ってごらん。写すことは立派な勉強だよ。」
といった言葉かけも随時行った。そうすると自分の言葉で数行書いたりする。それを大きく評価した。
学級通信でも何度か取り上げ、家庭でも話題になるように試みた。次のようなお手紙をいただいた。
「最近の拓郎は、作文用紙に向かって黙々と書いています。その日の国語の授業でやったことを教科書、ノートを見ながらまとめています。読むこと、書くことが苦手な拓郎ですが、辞書を使いながら一生懸命書いている様子に感心しています。」
 この原稿を書いている今は三月上旬、学校では卒業式の練習を行っている。評論文を七十枚書いた吉田さんは、卒業式での「門出の言葉」で、そのことを述べるという。大きな自信になっているのであろう。
4 学習班をつかう
 周到な準備をして授業にのぞんでも、空回りすることがある。学級集団に学ぼうという姿勢がない場合だ。
授業とは、先生が皆を引っ張っていきながら創るものではない。先生と子ども達、皆で創り上げるものだとの認識を持たせねばダメだ。そのために私は学習班を用いた授業づくりを進めている。
四人一組の生活班で、学習リーダーをひとり決める。勉強が得意な子がなってもいいし、立候補してもよい。学習リーダーには次のような話をする。
「君たちの役目は、授業を盛り上げることだ。先生の問いに対しては元気よく『はい!』と挙手しなさい。わからなくてもいいから挙手する。そしてどんどん間違えよ。一時間に一回は間違えよ。先生といっしょに活気ある授業を創ろう。」
 この後、実際に間違えを発表する練習をする。
また班会議のシュミレーションも行う。
「班のメンバーの様子を思い浮かべてごらん。班会議のときは、最初はあなたたちリーダーさんが言うといいよ。その後に発言が苦手な子を指名するとよい。意見が言えなかったら、君たちの意見と同じことを復唱させればよい。発言力のある子は最後に指名するように。」
といった具合に。
さらに、一時間の授業の流れも教えることがある。見通しを持たせるためである。
音読等は班ごとの競争も取り入れながら(もちろん排他的な競争にならないように)、意欲を高めていく。
学習班という組織を使う。これが三つめの答えである。