『ちいちゃんのかげおくり』(あまんきみこ/小3)を読む

読み研通信101号(2010.11)

 『ちいちやんのかげおくり』は、光村図書三年下に収録されている作品である。
 あらすじは、
 お父さんの出征の前日、ちいちやんは家族四人で「かげおくり」(影法師をじっと見つめてから空を見上げると、影の形が空に白く見える)という遊びをする。やがて戦争が激しくなり、空襲で母と兄を失ったちいちやんは、食べる物もなく一人で死んでゆく。

1 作品の〈発端〉をとらえる

 私は〈発端〉を次のところと考えた。

 夏のはじめのある夜、……

 ちいちゃんの家族が空襲にあい、ちいちゃんは、お母さんとお兄ちゃんにはぐれて一人ぼっちになる。そして、食べるものもなくなり、ちいちゃんは死んでいく。このような流れが捉えられるならば、発端はそれほど揺れないだろうと考えていた。
 ところが、授業では、発端は揺れた。
子どもだちからは、発端の候補がいくつも出された。その中で、私か考えた発端の箇所以外に、有力な意見として次の二つがあった。

A 次の日、お父さんは、白いたすきをかたからななめにかけ、日の丸のはたに送られて、列車に乗りました……
B けれど、いくさがはげしくなって、かげおくりなどできなくなりました……
 
 どちらも、「夏のはじめのある夜、……」よりも前のところである。Aの理由としては次のように出された。ここでお父さんが戦争に行ってしまう。お父さんがいなくなったから、空襲があったときに、うまく逃げることができず、ちいちやんは死ぬことになった。
 Bは、それまではちいちやんたちはかげおくりをして遊んでいたのに、「いくさがはげしくなって」かげおくりができなくなったというものだった。つまり、ここから戦争の状況が大きく変わったというのである。。
 AもBも、お父さんの出征の意味、空襲のはじまりといったこの作品における大事なポイントをとらえている意見であった。
 実践のおもしろさは、授業が教師の予定どおりに展開するところではなく、予想を裏切って子どもだちから多様な読みが出されるところにある。AもBも、お父さんの出征や空襲というこの物語の大事な伏線となる箇所をおさえており、それらの意見が出ることで、読みとりをさらに深めることができた。
 Aに対しては、お父さんが戦争に行った後もかげおくりをしてちいちやんたちは遊んでいる(つまり空襲はまだはじまっていない)から違うという反論が出された。
 Bに対しては、はじめなかなか反論が出なかった。「しょういだんやばくだんをつんだひこうきがとんでくる」「広い空は~とてもこわい所にかわりました」といった表現は、戦争の状況を大きく変えるものである。その後の空襲の場面につながる表現であり、子どもたちの目は、そこにひきつけられていた。
 「夏のはじめのある夜……」以降には、「くうしゅうけいほうのサイレン」という言葉はあるものの、「しょういだんやばくだんが落ちてくる」といった直接的な表現がない。「赤い火」「ほのおのうず」といった火事を思わせる表現があるくらいである。子どもたちは、Bから空襲がはじまるような感じを強くもったようなのである。
 以前に学習した『三年とうげ』の発端が「ある秋の日のことでした……」であり、それと重ね合わせて、「ある」という言葉に着目させて、「夏のはじめのある夜……」からを発端と決めていった。「ある夜」という以上、その夜に何かがあったのである。ちいちゃんが死んでいくことになったのは、その「ある夜」の空襲が原因になっていることをとらえさ
せた。
 「ある年」「ある日」といった「ある」は、物語における何かが起こったことを予感させる表現として重要である。そのような「ある」の意味を、予どもたちにきちんと理解させていくことを大事にした。

2 〈クライマックス〉をとらえる

 私は、〈クライマックス〉は次の箇所だと考えた。

 そのとき、体がすうっとすきとおって、空にすいこまれていくのが分かりました。

 しかし、この作品のむつかしさはクライマックスにある。ちいちゃんは、空襲でお母さんとお兄ちゃんを失い、ひとりぼっちとなり、防空壕で食べるものもなくなり、死んでいく。そこで話が終わるのなら分かりやすいのだが、その後に天国で家族と再会する場面がある。
 さらにいえば、お母さんやお父さんの死も明確に語られるわけではない。また、ちいちゃんの死をも、はっきりと語る表現がない。「そのとき、体がすうっとすきとおって、空にすいこまれていくのが分かりました。」「夏のはじめのある朝、こうして、小さな女の子の命が、空にきえました。」と死を暗示する表現はあるものの、「死」という言葉は一回も用いられていない。
 また、天国(本文では「空」と表現)でのちいちゃんの姿が描かれることからも、ちいちゃんの死がきちんとつかめない子どもも出てくるのではないかと考えた。
 発端やクライマックスは、決めること自体が目的ではない。そのことを通して作品を大づかみにするところにねらいがある。『ちいちゃんのかげおくり』では、まず子どもたらがどんなお話かとらえられることをねらいとした。
 それゆえ、授業では発端からどんなことがあったかを順にまとめていった。

  空襲にあう
   ↓
  ちいちゃんはひとりぼっちになる
   ↓
  一人でぼうくうぼうでねる

そして、最後にちいちゃんがどうなったかを考えさせた。
 私は、子どもたらがちいちゃんの死をきちんと読みとれているか正直なところ心配していたのであったが、その点については子どもたちは読みとっていた。
 クライマックスをめぐる議論は、混乱するのではないかと考えた。子どもたちは、構造よみをはじめて間もなく、みんなの考えを議論の中で一つに絞り込んでいくようなことにはあまりなれていない。そこで、ちいちゃんの死んだところはどこかを子どもたちに指摘させ、先に挙げたところにある程度教師のリードで決めていった。

3 「食べました」と「かじりました」の違いを考える

 私は、国語の授業ではできる限り言葉にこだわらせたいと考えている。戦争教材の場合、教材を読み深めることよりも、ついつい戦争について教えることに重点が行ってしまうことがある。それは社会の授業にはなりえても、国語の授業ではないと私は考える。
 私かこの作品のカギになると考えたのが次のところである。ちいちやんが、空襲で一人残され、防空壕で夜を過ごす場面である。  (傍線加藤)

 その夜、ちいちゃんは、ざつのうの中に入れてあるほしいいを、少し食べました。そして、こわれかかった暗いぼうくうごうの中で、ねむりました。
「お母ちゃんとお兄ちゃんは、きっと帰ってくるよ。」
 くもった朝が来て、昼がすぎ、また、暗い夜が来ました。ちいちゃんは、ざつのうの中のほしいいを、また少しかじりました。そして、こわれかかったぼうくうごうの中でねむ
りました。

 最初は「食べました」、後は「かじりました」になっている。その違いを子どもたちに考えさせたいと考えた。それが読みとれることで、ちいちやんの死がどのようなものかも理解できるだろうと考えた。

T ここには、おかしな言い方をしているところがあります。言わなくてもいい言葉がある?わかる?
C ……
T 言わなくてもわかるところは、わざわざ説明しない。
C 「暗い夜」
T なぜ?
C 夜は暗いから、「暗い」なんていわなくてもいい。
T そうだね。そうすると、なぜわざわざ「暗い夜」なんて言うんだろう?暗いのは
C ちいちゃんの気持ち
T どうして?
C お母ちゃんもお兄ちゃんもいない、ひとりぼっちだから。
T その通り。もう一つ、ここには似た言葉だけどはっきりと使い分けている表現がある?どれ?
C 「少し食べました」と「少しかじりました」
T どう違うの?
C 食べるに普通に食べるだけど、かじるは歯でかじる
C 食べるものが違う。
T そう?きちんと読んでごらん。何食べているの?
C ほしいい。
T どちらもほしいいを食べてるんだよね。それなのに、「食べる」と「かじる」では違ってる。
C 食べる量が違ってる。
T どう違う?
C 「かじりました」の方が量が少なくなっている。
T どうして少なくなっているの?
C 食べていって、もう残りが少しになっているから。
T そうすると、この後どうなっていくだろう?
C 食べるものがなくなる。
C ちいちやん、死んじやう。

 この後、「明るい光が顔に当たって、目がさめました。」とそれまでの「暗い」場面から一気に明るくなる。状況が好転し、ちいちゃんが助かるのではないかと一瞬思わせるような書き出しである。その後に、ちいちゃんが死を迎える、幻想的な場面が続く。それだけに、「ほしいいを、また少しかじり」、やがて死を迎えていくちいちゃんの姿をきちんと読
みとっておくことが重要なのである。