国語科の教科内容の再構築という課題

読み研通信76号(2004.7)

1 国語科の教科内容の曖昧さ・あてどなさ

 各地で小中高の国語の科授業を見る機会が多くあるが、それらの多くに共通する一つの問題がある。それは、その「授業でどういった国語の「力」をつけていくのかということが、極めて曖昧であるということである。
 曖昧なままに授業を展開しているから、一見すると子どもたちが主体的に授業に取り組んでいるように見えても、その実、子どもたちにどういう国語の力がついたかは、はっきりしない。
 文学の授業で、ある作品をめぐって子どもたちがたくさん発言をする。子どもたちは一生懸命で発言がとぎれることはない。授業の最後の感想も、自己評価も、「たくさん発言ができてよかった。」「ごんが、なぜあんなに兵十につぐないをしようとしたかがわかった。」などというものがある。
 ところが、授業後に「その発言のやりとりを通じて、子どもたちに一体どういう力がついたのか」と教師に問うと、なかなか明確な答えが返ってこない。「あれだけ熱心に発言しあったのだから、国語力が伸びていないはずはない。」といった信仰に近い確信があるだけである。
 それは、授業の指導案を見ても、同じである。指導案の中の「本時の目標」を見ると、たとえば次のようなものが多い。

(1)美しい情景描写を読み、自然の美しさに気付かせる。
(2)登場人物の行動の意味を考えて、話し合うことができる。
(3)ごんの心情について、各自意見をもつことができる。
                     (「ごんぎつね」の指導案)

これでは、どういう国語の力を子どもたちにつけていくのかは見えてこない。そして、多くの場合、その曖昧さは授業そのものを見ても消えることはない。
 次のような「目標」もある。

 主題に関係する文を文脈にそって読 みとりながら、主題をつかむ。
                    (「大造じいさんとがん」の指導案)

 ここでも「主題に関係する文」をどうやって発見するのかは、はっきりしないままである。そういった文を発見できること自体が国語の力に深くかかわるのだが、その発見の方法などについては、どこにも書かれていない。実際の授業でも、教師が「主題に関係する文」を示してしまうか、子どもたちが探すにしても、何となく教師の助言・誘導で絞られていくだけで、なぜそこに着目しなければならないかは、不明のままである。
 もちろん「主題に関係する文」を見つけた後に、その文をどうやって読み深めていくかについても、曖昧なままである。
子どもたちが自力で読むための方法は、ほとんど示されてない。
 右に述べてきた方法は、それが内在化することで国語の「力」となる。そして、それこそが国語科の「教科内容」の中心的な構成要素となる。
 よりよく読める人は、作品の勘所、ポイントでしっかり立ち止まって読み深めている。あまり読めない人は、なんとなくふわっと読んでいるから、読んでも深まらないし面白くない。これを読み研では、「線引き」と称して大切な読みの方法として位置づけてきた。
 立ち止まった方がいい所と言えば、たとえば、人物相互の関係性に変化が見られるところ――「ごんぎつね」ならば、ごんと兵十の関係性、特にごんの兵十に対する見方が変わる所、あるいは大きく発展するところ、また、兵十のごんに対する見方が変わるところ、あるいは大きく発展するところである。同時に中心人物がそれまで見せなかった意外な一面、性格を見せることもある。それらのことを知り、身につけることで国語力は確実に上がる。
そして、そのことは、たとえば作品の「クライマックス」に目をつけておくと、より見えやすくなる。クライマックスで人物相互の関係性が最も大きく変わる場合が多い。クライマックスの変化を意識的に把握することで、そこに至るまでの事件の変化の節目となる部分も、自然と浮き彫りにされてくる。
 勘所で立ち止まった後には、その部分を丁寧に読み深めていくのだが、その読み深めにも様々な方法がある。前の関係性との差異を読んだり、その理由を推理したり、さらにレトリカルな表現に目をつけたりしながら読み深める。たとえばクライマックス周辺では、兵十のごんへの見方が劇的に変わる。そのことは、「きつね」「あのごんぎつねめ」から「ごん」「おまい(お前)」という呼称の変化に象徴的に示されている。
 
2 国語の教科内容を追究するための方向性

今まで読み研では、右に述べたような読みの方法を丁寧に追究してきた。様々な研究会の中でも、読み研は国語科の方法について、かなり豊かな成果を上げてきた会の一つと言える。
 とは言え、まだまだ「教科内容」という観点からの整理、追究、検証は、十分とは言えない。色々な事情がそこには介在しているが、一つには、「教科内容」と「指導過程」「教育方法」「教材研究」等とが明確に区別されないままに、研究・実践が行われてきたということが理由として大きいと考える。右に示したような読みの方法、たとえば「線引き」はそれ自体が指導過程の一つとして位置付いている。教師の教材研究の方法でもある。そういう中で、子どもたちに学ばせ身に付けさせる国語科の教科内容として明確に位置づけるということが、曖昧になっている場合があった。
 これからは、右の方法等を国語科の「教科内容」としてとらえ直しながら、体系的な整理を試みる必要がある。そして、同時に今まで追究してきた様々な方法を、厳しく検証し直す必要がある。
 また、「教科内容」という観点から見直すと、読み研の理論には、まだまだ厚みの足りない側面が残っていることが見えてくる。共同研究によって、もっと体系化に向けた新しい追究が必要である。
 その追究の際に、今まで読み研であまり論議されてこなかった国語科の教科内容の構造について、ここで少し触れたい。こういった観点から、読み研が追究してきた「方法」を見直すことは、教科内容の再構築にとって、有効であると考える。
 国語科の教科内容を構造的に考える場合、国語科教育の目標論あるいは目的論を、再度見返してみる必要がある。目標論のわかりにくさが、そのまま教科内容の曖昧さに現象しているという側面がある。
 国語科の目標論については、現在まで様々な主張が展開されてきた。それらを、大きく分類するとおおよそ次のようになる。(注)

 A 言語の理解・表現の能力を身につけさせる
 B 認識力・思考力を身につけさせる
 C よりよい人間の形成をはかる

 Aは、言語の能力、つまり言語を使いこなすための方法・技術を身につけさせようという目標論である。文章を読んだり書いたりする能力や音声言語によって人々と伝え合う能力をつけていくことに、国語科教育の目標を設定する。
 Bは、ものごとを認識していく力、論理的に思考する力を身につけさせようという目標論である。認識する力、思考する力というと、国語科の域を超えるようにも思えるが、認識も思考も結局は言語によって行うわけで、国語科教育によってその力を高めようということである。
 Cは、国語科教育によってよりよい人格・よりよい人間を形成していくという目標論である。戦前では「知徳を啓発」「国民的精神の涵養」という形で、戦後は「民主的な社会に望ましい人間を形成する」という形で論じられた。「民族意識の形成」「自己変革」「思想内容の形成」などの主張もあった。
 これらは、ある時は対立的にある時は融合的に論じられ、今日に至っている。
 しかし、本来A・B・Cの三つの目標は、対立的に考えるべきではなく、統一的に達成していくという方向で考えていく必要があるはずである。問題は、どのようにこれら三つを統一的に把握し指導していくかである。
 まず、Aの指導によって、子どもたちは様々な能力を身につけていくことになる。たとえば、説明的文章の指導ならば、「どういった具体的な事例を前提にして、筆者は結論を導き出しているかを検討する」「前提と結論の間に無理な飛躍はないかを検討する」「その事実について、筆者が示している解釈と別の解釈をする余地はないかを検討する」などという読みの方法を学びつつ文章を読むことで、子どもたちは読みの能力を身につけていく。
 しかし、この読みの力を身につけることは、文章をより的確に読むことができるようになったということに止まらない効果がある。それによって、ものごとを認識する力、論理的にものごとを考える力を、同時につけていくことになる。Bの領域である。
 「その事実について、筆者が示している解釈と別の解釈をする余地はないか」は、文章を読む方法ではあるが、同時に文章読解を超えたものごとの認識の仕方でもある。ある社会事象について、ある人物が一つの解釈を示す。私たちは、その解釈の見事さに納得する一方で、「他の解釈の可能性はないか」と考え直してみる。必要ならば他の専門家の解釈を探してみる。必要な文献・資料に当たってみる。それらを総合しながら、自分なりの解釈を作りだしていく。―ということにもつながっていく。それが自己内対話という形に発展していくことにもなる。
 はじめは書きことば・話しことば(外言)を介しての読みの力、認識の力・思考の力という要素が大きいのかもしれないが、やがては内言としての認識の力・思考の力にもなっていく。そして、以上のような認識の力・思考の力は、当然一人一人の世界や社会についての見方・考え方を形作っていく。様々な社会事象、政治情勢、世界情勢について考えていく場合に、認識力は有効に働き、より主体的なものの見方・考え方につながっていくことになる。また、家族、友人、地域の人々、職場の人々など、自分のまわりの人たちとの関係を見いだし、築いていく場合にも、そういった認識力は生きてくる。そして、自分自身を対象化し見いだしていく際にも生きるはずである。その意味で読みの力、認識の力等は、一人一人がものの見方・考え方を創り出すことに深くかかわってくる。このことは人格の形成、人間の形成、主体性の創造にもつながっていく。
 読みの力、認識の力が、そのままものの見方・考え方、そして人間の形成に発展していく場合もあるが、一方では、読みの力、認識の力がいくつかの学びや経験・知識などと組み合わせられることで、より多様なものの見方・考え方、人間形成につながっていく場合もある。
 以上のような構造的な目標論を踏まえながら、国語科の教科内容を体系的に解明していくことが、今求められている。国語科の教科内容の再構築という角度から、読み研の研究活動をさらに前進させていく必要がある。
 なお、今年八月に刊行される『国語授業の改革4・国語科の教科内容をデザインする』(学文社)は、今まで述べてきたような観点から編集されている。そこでは、構造、形象、論理、吟味、メディア、語彙といった様々な角度から教科内容の再構築を試みている。そちらも是非ご参照いただきたい。

(注)このことについての詳細は、柴田義松他編著『あたらしい国語科指導法』二○○二年(学文社)の中の第1章第2節「国語科教育の目的」(阿部昇執筆)を参照願いたい。