高校部会研究報告「水の東西」の吟味よみ

読み研通信75号(2004.4)

一 はじめに

 今年二月、第十二回高校部会において、「水の東西」(山崎正和)の分析提案と模擬授業を担当させていただいた。そこでの討論をふまえて、吟味よみを中心に報告する。
 なお、この文章は、教科書では「評論」と位置付けられている。日本人の水に対する美意識を「仮説」的に論じていることから、読み研方式で規定するならば「説明的文章」の中の「論説文」と言えよう。しかし、厳密な論説文ではなく、「随筆」的要素を併せ持った説明的文章、すなわち「説明的随筆」と規定するのが妥当である。随筆を対象に吟味する場合、「無い物ねだり」にならないように留意しなければならないが、説明的要素を持つ以上、事実と論理における正確さは不可欠である。そうした視点から吟味を行う。

二 構造よみ

 紙幅の都合で、構造表の提示に留める。

1  「鹿おどし」の解説                 前文(導入)

3  アメリカの銀行の待合室における「鹿おどし」と噴水  本文1
4  「流れる水と、噴き上げる水。」

5  ヨーロッパ・アメリカにおける噴水          本文2
6  「時間的な水と、空間的な水。」

7 
8  日本人と西洋人の水に対する美意識の違い       本文3
9 

10  「見えない水と、目に見える水。」
11 「鹿おどし」の意義                  後文(発展的結論)

三 吟味よみ

 吟味よみには、文章の評価と批判という二つの要素があるが、紙幅の都合で主要な批判点を述べる。なお、( )内には、吟味よみのスキルを記載した。

(1)8段落③文で「人工的な滝を作った日本人が」といいつつ、④文で「日本人にとっては水は自然に流れる姿が美しい」と述べているが、「人工的な滝」の水の流れ方は「自然」なのだろうか。それは矛盾ではないか。また、8段落④文で、「日本人にとっては水は自然に流れる姿が美しいのであり、圧縮したりねじ曲げたり、粘土のように造型する対象ではなかった」と述べている。しかし、日本庭園によく見かけられる「枯山水」は、「自然に流れる」どころか存在しない水を鑑賞するものであり、ある種「造型する対象」であると言えるだろう。筆者の主張は現実と対応していない。(事実の取捨選択や現実との対応の妥当性・論理関係の整合性)

(2)筆者は、噴水が日本で発達せず西洋で発達した理由として、①「西洋の空気は乾いていて、人々が噴き上げる水を求めた」、②「ローマ以来の水道の技術が、噴水を発達させるのに有利であった」、③「日本人にとって水は自然に流れる姿が美しいのであり、圧縮したりねじ曲げたり、粘土のように造型する対象ではなかった」という三点を指摘し、①・②を認めつつも③こそ最も重要というニュアンスでその後の論を展開している。そこで生じる疑問は、①や②のような「外面的な事情」よりも内面的な美意識の違いの方が優先される根拠が分からない点と、その他の理由をなぜ考えないのかという点である。前者で言えば、「技術があるから発想が生まれる」のが自然な考え方であり、②の理由こそ最も重要ではないだろうか。

 また、後者に関連して百科事典の「噴水」の項には、安西忠昭氏による次のような解説があった。「ギリシアおよびヘレニズムの時代、ギリシアの人々は泉を神聖なものとしてあがめていたので、泉を水盤の上に湧き出る噴水として人工化し、そのまわりに神殿や公共建築物を建てた。それらの噴水は多くの神々やユンフや英雄にささげられていたが、同時にそこに集まる市民に水を供給するという実利的な面も備えていた。」つまり、西洋人が噴水にこだわる背景には宗教的な価値観の存在があると考えられるのである。「fountain」が「泉、噴水」の両方の意味を持つことからも、それは裏付けられるのではないか。そうした可能性を全く考えることなく「理由として①も②もあるかもしれないが、それ以上に③が最も重要だ」という論理展開は、独断的である。(論理関係の整合性)

(3)11段落で、「もし、流れを感じることだけが大切なのだとしたら」と仮定条件を提示しているが、2段落では「『鹿おどし』は我々に流れるものを感じさせる」であった。そもそも、1~2段落では「動いているのを見ると」「見ていると」と、見た目の状態を問題にしていたのであり、「流れを感じることだけが大切」などとは言っていない。8段落でも、「日本人にとって水は自然に流れる姿が美しいのであり」と言っていることと矛盾する。そうすると、この前提はおかしくなる。おかしな前提をもとにみちびかれた結論「我々は水を実感するのに、もはや水を見る必要さえない」は無意味となる。また、「形がない」→「見えない」→「見る必要さえない」→「音の響きを聞いて」「心で味わえばよい」→「鹿おどし」は「水を鑑賞する行為の極致」という論理展開には飛躍がある。(論理関係の整合性)

四 おわりに

 討論では、こうした文章を書こうとする筆者の意図・思想性をも吟味する必要があるとの指摘があった。確かに、今までの吟味で分析したように、この文章では日本人の美意識を西洋人のそれよりもすぐれた価値あるものとして一面的に美化する傾向があるようだ。文化の優劣を論じているとすれば、それは危険な発想であるとも言える。授業の場でそこまで触れるかは別だが、大変刺激を受けた次第である。
 今後、論理よみと吟味よみのスキルをどう体系化するかが課題として挙げられる。読者諸氏のご意見・ご批判を乞う。