私が授業の中で意識して使う「言葉」

読み研通信72号(2003.7)

 唐突ですが、先生方の「授業の技術」って何ですか。こういう発問はわかりやすいとか、こういう指示を出すと上手くいくとか、こういった言い方は生徒の意欲をかきたてるとか、きっと人それぞれお持ちなのではないかと思うのです。
 ここでは、そういった技術の中でも「授業中の教師の言葉」に着目をして考えてみたいと思っています。同じ内容のことを伝えるにしても、「授業に有効な表現」はあると思うからです。また、せっかくいい内容の授業をしても、教師の表現方法次第で、あやふやで退屈な授業にもなりかねないと思っているからです。
 まずは、「私が授業の中で意識して使っている言葉」をあげてみます。……とは言っても、私自身が考え出したオリジナルというわけではありません。そのほとんどが、学内や研究会やビデオの授業を見て、私がいいなと思っている表現を「まねをしているもの」です。
 ですから、正確に言うと「私が授業の中で意識して使っている言葉」というようなたいそうなものではなく、「私自身の授業のために集めてきた言葉」という言い方のほうが良いのかもしれません。前置きが長くなりました。そのつもりでお読みください。

「今日の目的は二つです。一つは……。もう一つは……です。この二つができると、今日の授業は〇(まる)です。頑張っていこう。」

 私は本時のねらいは何か、授業の最初に宣言をします。「ねらい」を一言で説明できない授業は、どこかあやふやな授業になると考えているからです。
 また、「ねらい」を宣言することで、そのねらいを達成できたかどうか、「評価」することができます。自分達がいかに成長できたかを授業時間ごとにフィードバックすることは国語の授業にとって最も大切なことだと思っています。

「根拠は?」

 発問に対する、生徒の答えの後「根拠は?」とよく聞き返します。どんなに生徒の答えが優れていても、その根拠が文章の中で示せないと、まだまだ不十分だと思うからです。また、そういう意見は、他の生徒がついていけないことが多いからです。
つい「いい答えだね。みんなわかった?今の意見はね・・・ということなんだよ。」とやってしまいたくなりますが、ここで踏ん張って「根拠は?」と返すことで、授業が深まっていきます。

「うーん、三十点。」

 特に主題読みのように、難易度が高い発問の時、いい線はいっているものの、不十分な答が返ってきたときに使います。「三十点」と言うと、周囲の子達が、俄然と張り切りだします。「お、だんだん良くなってきたぞ、でも五十点。」「惜しい、八十点。」手を上げる生徒がだんだん増えていきます。

「はい。」

 「うるさい」「静かにしなさい」「集中しなさい」静かにさせたいときにこういった言葉がいかに空しいか。
 私は「授業開き」の時に、「『はい』と言われたら何をしていても一旦止めて集中すること」と生徒と約束をします。「はい」の代わりに、手をたたくでも黒板をたたくでもいいのですが、少し大きな音が出る動作をおこないます。
 もちろん「〇班、集中が早いね。」「〇班、班長がよく注意してくれました。」などの評価は加えていきます。