発端の基準として「勢力の出会い」を重視しすぎることの是非  ~『物と心』構造よみ(発端)を通して~

読み研通信86号(2007.1)

1.構造読み発端の授業

「物と心」の発端として候補に挙がる箇所は、次の二箇所であろう。A「兄の宗一と一緒に、・・・」B「浩は、自分は丸刃にしてしまったが、・・・」Aを支持する意見は、「兄と弟が本作品の中で初めて出会うところだ。だいたい、小刀を拾う行為は非日常的であるとも言える。」あたりが出てくる。またBを支持する意見は、「浩の心の細かい描写が始まるところである。自分の研ぎ方を失敗してしまったことに動揺をはじめる。この作品の非日常性とは、ただ単に楽しく遊んでいた浩が、我を忘れて楽しむことができなくなってしまうことである。」あたりが出てくる。「物と心」の発端の授業をすると、ほとんどの生徒は、発端はAであると言う。「Aでは、二つの勢力が出会っている。もし、Bが発端ならば二つの勢力を示してみろ。」というのである。Bを支持している生徒は、何も言えなくなる。

2.発端は果たしてAか?

 Aを支持する生徒は、対立する勢力を「兄と弟」と言う。確かに兄と弟は、小刀の研ぎ方をめぐり、対立関係にあるように見える。結局、弟は兄に負けてしまい、兄の研ぎ方の優れていることを思い知る。・・・・・・しかし、この作品はそんな単純な勝ち負けの話なのであろうか。
 実は、本作品の中で「兄と弟」は直接ぶつかってはいない。確かに、弟は勝手に兄に対して対抗心を持って兄に迫っているが、兄は最後まで相手にしていないのである。本作品において二つの勢力があるならば、それは「兄と弟」ではなく、弟の心の中にある「ある思いとある思い」なのではないか。もしそうならば、弟の心理描写が始まるBのほうが、発端として適当であるはずである。しかし、心の中にある「ある思いとある思い」とは何か?それは、明らかにできるのか?

3.本作品における二つの勢力

 本作品には発端で出会うべき二つの勢力はないのか。以下に示すそれぞれの文は本文展開部から、そのまま抜き出したものである。a「浩は自分が時間を浪費して、しかも取り返しがつかないことをしてしまったように思い、周到だった兄をうらやんだ。」b「浩は心の動揺を隠そうとして、黙ってまた砥石に向かった」a「彼が横にいるだけで浩は牽制されてしまい、自然と負けていくように思えた。」b「宗一はやっていることにふけっていた。浩は自分もふけっているように見せ掛けた。」
以上のa・b二組の文の関係を見ると特徴的なことが明らかになる。a[浩は内面でかなりの動揺をしている。]しかし、b[浩の外面はその動揺を必死に隠している。]のだ。つまり、浩は[自分は負けている]という思いと、[自分の負けを認めたくない]という思いが、展開部から交錯し始めるのである。この二つの思いが、本作品における二つの勢力ではないか。しかもその思いは、研ぎ方だけにとどまらない。終結部に「これがぼくの気持ちだ、どうしたら兄さんのように締まった気持ちになれるだろう」とあるように、最終的には気持ちの面でも自分の未熟さを認めていく。しかし、当然のことながら構造よみの段階でここまで読み取れる生徒は、まずいない。

4.構造よみで分析を押し付けることの危険性

 たまに構造読みの段階で、ここまで説明しきってしまう教師もいるようだが、それは無謀だ。形象よみで一文ずつ正確に読み取るべき内容を構造よみの授業内で読み取るとなると、短時間であまりにも理屈っぽい授業を展開することになる可能性がある。
ここには、二つの危険性が存在する。一つ目は、授業について来られない生徒を生むという危険性である。少なくとも国語嫌いを増やしそうだ。二つ目は、教師の恣意的な読みを押し付けてしまうという危険性もある。一文一文の分析の裏づけがないまま、ここまで内容に深く関わった読み取り方をしていると、自分の分析を正当化するための構造分析をもとにしたよみの授業となる可能性がある。
教師の自己満足にならないような授業にするためには、二つの勢力が何であるかは、ここでは決定しないで、「形象よみまで先送り」にするのが、誠実な授業ということになりそうだ。

5.発端の基準

 先ほどの授業に戻る。Bを支持している生徒は何も言えなくなる。じゃあ、やっぱりAか・・・。ということになる。教師はこのまま授業を終えるわけにはいかない。そこで、解説を始める。「いや、実はね……、二つの勢力は明らかにできないのだけど、発端はBです。」しかし、ここまで討論させてきて、みんなである一定の成果を出した後に、生徒たちはこの教師の解説に納得するであろうか?「二つの勢力が出会うところが発端だというから、それを基準に話し合ってきたのに、Aが違うなんて納得できない。せっかく一時間かけて話し合ってきて、やっとすっきりした結論が出たと思ってたのに。だったら、最初から『発端とは二つの勢力が出会うところだ』なんて教えるなよなぁ。」私が生徒なら、きっとこう思う。
 このように形象よみまでやらなければ見えてこない「二つの勢力」もある。また、作品によっては形象よみをやっても「二つの勢力」が見えてこない作品もあるのも事実だ。私は、こういった作品がある以上、「二つの勢力」を発端の基準として重視しすぎるのは、危険ではないかと思っている。「二つの勢力」のように作品の内容にばかり目を向けていると、構造よみ自体がどんどん恣意的になっていく危険性があると感じている。まず教師の分析があって、そこから作品構造をひねり出し、授業化していくのでは、「構造よみは生徒が自分一人でも読み取ることができるものさしである」とはいえなくなる。本末転倒とはこのことだ。

6.書かれ方に注目をする。

 では、何に目を向ければよいのだろうか。私は「内容主義」に落ちいらないようにするためには、作品自体に向き合う姿勢が必要であると考えている。そのためには、もっと作品の「書かれ方」に着目するべきではないかと思っている。
「書かれ方が説明的から描写的となるところ」という発端の基準がある。説明的とは、長い時間のことを短く表現すること。描写的とは、短い時間のことを長く表現することだ。つまり、表現のスピードが変わるところといってよい。作者が、急にゆっくりとしたペースで筆を進めるところ、それが発端とはいえないか。作者は、作品の設定を語るときに比べ、中心的な事件を語りだすときは、本腰を入れてゆっくりと丁寧に描き始めるのではないか。本作品の場合、その箇所はBとなる。それまでは「拾って」「帰って」「研いで」「差がつく」というある一定の時間を短く表現しているのに対して、ここからは「兄の隣で研いでいる」というほんのひと時を詳しくゆっくりと表現している。スピードはまるで違う。進み方が遅くなる。

7.構造よみは仮説、形象読みは立証。

 この箇所に着目をして「二つの勢力」が浮かび上がればそれでよし、わからない場合は形象読みを通して探っていく。むしろ、それを展開部の形象よみの目的にするほうが無理がないのではないか。
そもそも、構造よみでは「読みの仮説」を立てること、形象読みで「仮説の立証」をすることが、それぞれの目的であったはずである。仮説が立てられなければ着眼点を確認して、次の段階に進むのが筋ではないか。