問うということ 2「大学生数学基本調査」から

 「ゆれる発問」とは、読み研の創立代表である大西忠治氏の言い方である。氏は、「ゆれる発問」について、「発問が正確に子どもの思考活動を一定の、教師のめざしている方向へ導いていかず、もっと広い、一般的な反応を引き出してしまっている」ものと説明されていた。
 私は、大西氏の「ゆれる発問」を受けて、「ゆれ」の要因から「ゆれる発問」を次のように整理している。

1)発問の意味が二通り以上に解釈できる場合
例・「雪がとけたら何になる?」という発問 
これは小学校の理科の授業での発問であるというが、教師は科学的な知識として、「水になる」という答えを期待していた。しかし、生徒からは「春になる」という答えが返ってきたという。下線部を物理的現象として解釈するか、季節的な変化と解釈するか、において答えは「ゆれる」。

2)何を問うているのかがはっきりしない、発問自体が曖昧さをもつ場合
 例・「この文から何が読める?」「この文を読んで、何か気がつくことはない?」といった発問
「何が読める」「気がつくこと」というのは、発問が指示している事柄が曖昧で、はっきりしない。そのため、生徒はどのように答えてよいのかとまどったり、多様な答えが出てきたりする。

3)答えがもともと多様性をもつ場合
例・(芥川龍之介「羅生門」の授業で)「下人はこの後どうしただろう?」
「下人の行方は、だれも知らない。」と結ばれたところを起点とし、作品の枠の外に読みを広げていくものであり、読み手はある程度作品を離れて自由に考えることが許される。

 発問はゆれない方がよいと一般的には考えられがちだが、私は必ずしもそうは考えていない。ゆれない発問がよいというのであれば、二択式の発問にすれば問題は解決する。しかし、二択の問いばかりではクイズ番組と変わらない。答えを当てることが目的となり、子どもの思考力は育っていかない。
授業の発問は、やがて子どもの自問へと移行していくことを目指さなくてはならない。教師が問い、子どもが答えるところから始まって、やがては子どもが自ら問い、自ら答える段階へと発展していくことが求められる。授業における発問とは、子どもが自ら問うことができる力を育んでいくものでなければならない。
このような立場に立つ時、発問がゆれるか、ゆれないかが問題なのではなく、発問が子どもの思考を促すものとなり得ているかどうかが重要であることがわかるだろう。発問が「ゆれる」ことが悪いのではない。教師がどれだけ発問の「ゆれ」をわかっているかが重要な問題となるのである。「ゆれる」ことがわかっていれば、授業で子どもがゆれても対応できる。「ゆれ」を修正する助言を打てばよいのである。教師は、発問がどの程度の「ゆれ」をもつのかをわかった上で、発問できなくてはならない。発問に対して、子どもたちがどのように反応するかを、あらかじめ予測できていなくてはならない。さらには子どもたちの反応に対してどれだけの許容度を持って対応できるかといった、教師のあり方こそ問題なのである。
 さて、先の2次関数における放物線の「重要な特徴」を3つという問いに戻る。出題側は、どれだけこの問いの「ゆれ」を自覚していたのだろうか。報告書の抜粋では、次のように述べられているという。
他の専門分野と同様に、「何が重要な特徴であるか」を判断し抽出することは数学においても不可欠である。この観点において、論理的に正しいことは価値をもつための必要条件であるが十分条件ではない。若い世代に数学を伝える(教える)にあたっては、価値観も含めた数学の知恵を伝えることも必要であろう。
これを見る限り、出題側に十分な「ゆれ」の認識あるいは予想があったとは思えない。そのことが先に引用した批判を受けることになったといえる。
 「大学生数学基本調査」の問題を批判することが私の目的ではない。国語においても2003年のPISAショック以来、記述型問題が増えている。全国学力テストのB問題はその代表ともいえる。最近では、記述をかなり重視した検定試験も登場している。そして、この傾向は今後も続いていくと思われる。それだけに、「ゆれ」をどう見るかということは国語科にとっても重要な課題といえる。
 記述での答えを求める場合、抜き出しとか字数制限といった条件を付けないと、答えがゆれる傾向を大なり小なり持つのである。ゆらしたくなければ、選択肢が最も明快である。しかし、選択肢では解答者の思考を見ることに限界がある。だから記述の答えを求めることになる。しかし記述であることは、それを採点するにあたってどうしてもある曖昧さを持たざるを得ない。記述問題の場合、誤字脱字を減点するかしないかといったことすら、場合によれば採点者によって基準は異なるのである。
 ここで大事なことは、「ゆれる発問」における採点側の見通しと許容度である。どこまでの「ゆれ」を可とするのか。いいかえれば、可と不可のラインをどこで引くことができるか、その見通しが問題自体にきちんと組み込まれていなくてはならない。言い換えれば、答の範囲を限定できる条件が問題に入っていることが重要なのである。その上で、どこまでの範囲で答えを許容するかといった許容度が意味を持つのである。機械的に○や×をつけることができないだけに、一つ一つの解答に対して、それが許容できるか否かを判断していく幅が求められるのである。国語においてもPISAショック以来、記述型の出題が増える傾向にある。数学基本調査は、他山の石とすべき問題を私たちに投げかけてくれているといえる。

 今回の「大学生数学基本調査」では、他にも「数学と国語の負の相関」の指摘など興味ある問題が他にもある。これについては改めて考えてみたいと思っている。