「シジミ」の誤読?から

 樟蔭女子大での教科教育法の授業で、後期はこのところ毎年、学生たちに模擬授業をさせている。2~3人で班を作り、班で教材を探し(教科書に載っているものという限定はしているが)、班で教材研究・指導案づくりをし、模擬授業の本番を迎える。その中に、石垣りんの「シジミ」という詩を扱ったものがあった。以下のような詩である。

   シジミ  石垣りん

  夜中に目をさました。
  ゆうべ買ったシジミたちが
  台所のすみで
  口をあけて生きていた。

  「夜が明けたら
  ドレモコレモ
  ミンナクッテヤル」

  鬼ババの笑いを
  私は笑った。
  それから先は
  うっすら口をあけて
  寝るよりほかに私の夜はなかった。

 さて、三連の「鬼ババ」とはだれのことだろう?
 それは「私」。「鬼ババ」は「私」であり、「私」は自分の中に「鬼ババ」を見ているのだ。
 ところが、授業の中である学生が「私」は「シジミ」ではないかという意見を出した。
 一連に出てくる「夜中に目をさました」のは人間。二連の「ドレモコレモ/ミンナクッテヤル」と思ったのも人間。そこまでは視点は変わらないのだが、三連はシジミの視点から語っているというのだ。シジミにとって「ドレモコレモ/ミンナクッテヤル」という人間は「鬼ババ」に見える。でも身動きできないシジミとしては「うっすら口をあけて/寝るよりほかに私の夜はな」いのである。一連にもシジミは「口をあけて生きていた」とあり、三連の「うっすら口をあけて」と照応しているではないか、というのである。
 模擬授業の場であり、教師役も学生。予想外の意見にたじろぎながらも、強引に自分の解釈に引き戻して、授業は進められていった。
授業を見ていた私(加藤)にも、この読みは意外であった。言われてみれば、そのように読んで読めないことはないのである。日本語では主語はしばしば省略される。文学作品ではその特徴がしばしば、作品の仕掛けとして有効に生かされる(「坊っちゃん」の冒頭などそのよい例だが)。一連には、だれが「夜中に目をさました」かは書かれていない。三連の「私」が一連の主語であらねばならぬ必然性はない。
「私」=「シジミ」説は、この詩の読み方としては誤読の部類に入るものかもしれない。しかし教材研究として考えたとき、ここには大事な問題があるように思われる。
国語教師の教材研究とは、このようなある意味「誤読」まで含めて読みとっていくものではないだろうか。授業という場は、「シジミ」という詩がわれわれに何を語りかけているのかを理解する場ではない。「シジミ」に込められた作者の思いや、思想を理解することに国語教育の主要な目的があるのではない。作者の思いや思想があるとすれば、それを詩の中から如何にして読みとることができるか、その術こそが国語では教えられなくてはならないと思う。
 その時対象となるのは、詩そのものでなくてはならない。石垣りんの経歴であったり、この詩の書かれた背景であったり、作者の思想がわからなくては詩が読めないのではない。まずは、詩そのものに向き合うことが必要なのだ。その詩はその詩だけでどのように読めるのか、どのような読みの可能性があるのか、それを最大限広げて読みとることも教師の教材研究の大事な要素だと思うのである。
 教室で生徒たちは、石垣りんのことも詩の書かれた背景も知らずに詩と向き合う。もちろん、それらの知識をあらかじめ教えていくことは可能だろう。でも、それをしていく限り国語は常に教師の教え込みにしかならない。教師の話や解釈を一方的に聞いていく授業にしかならない。生徒と教師が教室で、教材を間に向き合うとき、対等な関係で両者が向き合うようにしていかなくてはならない。その時、生徒から出される読みに教師は柔軟に対応できなくてはならない。誤読も含めて、生徒の読みが多様に出され、その検討の中から読みは深まっていくのだ。
「私=シジミ」説をそんなバカなこと……、と一言で片付けてしまうような教室では、生徒の読みは豊かに広がりはしないし、読みの深まりも望めない。誤読も含めてさまざまに教師が読めていることで、はじめて生徒の多様な反応にも応えられてゆく。
教師の教材研究は、誤読を含むのである。そこに普通の研究との違いがある。