森鴎外「高瀬舟」の構造よみ(教材研究)

 本稿は、先日の「第1回関西地域学習会」において報告した内容を基に、当日の検討で出された意見をふまえてまとめ直したものである。この作品の構造よみでは、発端は比較的わかりやすいが、クライマックスは難しいと言える。そこで、クライマックスを中心とした分析を以下提案する。

(1)「高瀬舟」の構造表

○冒頭(高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。……

○発端(いつのころであったか。……

○山場の始まり(庄兵衛は喜助の顔をまもりつつまた、……
 ◎クライマックス
(そうは思っても、庄兵衛はまだどこやらに腑に落ちぬものが残っているので、なんだかお奉行様に聞いてみたくてならなかった。)

○結末 ……、なんだかお奉行様にきいてみたくてならなかった。)

○末尾 ……、黒い水の面をすべっていった。)

(2)発端の読み

 発端(事件の始まり)をめぐって、生徒から出されるであろうと予想される意見と理由は次の通りである。

A「いつのころであったか。……」
→理由
① 二つの勢力(庄兵衛と喜助)の最初の出会いが描かれている。
② 「高瀬舟」という場の説明から登場人物の描写へと叙述が変化している。
B「しばらくして、……」
→理由
① 二つの勢力の「具体的な関わり合い」が始まっている。庄兵衛が喜助に語りかけることが事件の開始である
② それ以前は庄兵衛が喜助を見ていだいた疑問を説明する書きぶりだが、それ以降は会話中心となり、描写的になっている。

 その上で、私はA説を採る。理由は次の通りである。
① 書かれ方のレベルが一番変化しているのは、Aの前後である。それまでは、「高瀬舟」の一般的な解説であったが、そこから「これまで類のない、珍しい罪人が高瀬舟に乗せられた」というように具体的な事件が語られている。A以前は、習慣的に繰り返されていたことの説明であるが、A以降は一回切りの出来事の描写であるとも言える。
② 確かにB以前には、両者の間の交渉はない。しかし、庄兵衛が喜助の態度を不思議に思う時点で既に事件は始まっている。「不思議に思う」→「こらえきれなくなって呼び掛ける」は一連の動作である。

(3)クライマックスの読み

 クライマックス(事件の転換点・決着点)の読みをめぐって、生徒から出されるであろうと予想される意見と理由は次の通りである。なお、以下の検討にあたっては、『国語授業の改革①』(読み研編、学文社、2001年)所収の杉山明信氏の分析を参考にさせていただいた。

A「庄兵衛は今さらのように驚異の目をみはって喜助を見た。この時庄兵衛は空を仰いでいる喜助の頭から毫光がさすように思った。」
→理由
①喜助の話を聞いた庄兵衛の葛藤を作品の主要な事件と見る立場からの意見である。その根拠として、視点の問題がある。発端から喜助と庄兵衛が登場するが、語り手は庄兵衛の視点に立って物語を叙述している。語り手は、喜助を客観的にしか描写していないが、庄兵衛は彼の心の奥に深く入り込み、一貫して庄兵衛の心の中を描写しているのである。導入部を見ても、高瀬舟をめぐる状況は同心の立場から解説されている。したがって、庄兵衛の心の変化をこそ主要な事件の流れとして捉えるべきである。
②同心が罪人に対して「毫光」を見るということは、罪人に畏敬の念を持ったことを意味し、庄兵衛の大きな変化が読みとれる。また、衝撃的であり、読者へのアピール度が強い。

B「それを見ていて、私はとうとう、これは弟の言ったとおりにしてやらなくてはならないと思いました。」
C「私は『しかたがない、抜いてやるぞ。』と申しました。」
D「私は剃刀の柄をしっかり握って、ずっと引きました。」
→理由
① いずれも、喜助の中に弟を「殺さない→殺す」という変化があり、殺人を犯すという重大な行為であると見る。
② Bは弟の命を絶つ決意をした部分。Cはそれを表明した部分。Dはそれを実行した部分。
③ もしこの三者で論争すれば、B→C→Dと順を追って緊迫感が高まりDで頂点に達するので、Dが適切となる。
④ この作品が、喜助の謎の提示に始まり、この語りの中で弟殺しの謎が解かれるという推理小説的手法を採っていることをふまえると、Dで真相が明るみになるという見方ができる。

E「このとき、私の内から締めておいた表口の戸を開けて、近所のばあさんが入ってきました。」
F「もうだいぶうちの中が暗くなっていましたから、私には、ばあさんがどれだけのことを見たのだかわかりませんでしたが、ばあさんはあっと言ったきり、表口を開け放しにしておいて駆け出してしまいました。」
→理由
① 喜助の弟殺しは、弟の「恐ろしい催促」を受けて弟を苦しみから救うための行為である。現に、弟は兄の表明を受けて、「晴れやかに、さもうれしそう」になっている。つまり、弟殺しは喜助の兄弟愛の結果なのである。そこには大きな変化はない。
② E・Fには、「(喜助にとっては)弟のためにした行為→(第三者から見れば)殺人として断罪される行為」という転換を読むことができる。ばあさんは喜助兄弟の世話をしてくれてはいたが、喜助の行為を目撃して以降は、「奉行」→「役場」→「年寄衆」の下に位置する存在に変わるのである。
③ EとFとを比べると、E「ばあさんが入ってきました」より、F「ばあさんはあっと言ったきり、……駆け出してしまいました」の方が、目撃したばあさんの衝撃的反応が描写されていて読者へのアピール力が強いと読めるので、Fをクライマックスと読む。

G「庄兵衛の心のうちには、いろいろに考えてみた末に、自分より上のものの判断に任すほかないという念、オオトリテエに従うほかないという念が生じた。(庄兵衛はお奉行様の判断を、そのまま自分の判断にしようと思ったのである。)」
H「そうは思っても、庄兵衛は、まだどこやらに腑に落ちぬものが残っているので、なんだかお奉行様に聞いてみたくてならなかった。」
→理由
①Aの①と同じ。
②GとHに至る過程には、庄兵衛の葛藤がより詳細に描かれている。

▽「これが果たして弟殺しというものだろうか、人殺しというものだろうかという……疑いを解くことができなかった。」
▼「弟は剃刀を……抜いてくれと言った。それを抜いてやって死なせたのだ、殺したのだとは言われる。」
▽「しかし、……喜助はその苦を見ているに忍びなかった。苦から救ってやろうと思って命を絶った。それが罪であろうか。」
▼「殺したのは罪に相違ない。」
▽「しかしそれが苦から救うためであったと思うと、そこに疑いが生じて、どうしても解けぬのである。」
▼「庄兵衛の心のうちには、いろいろに考えてみた末に、自分より上のものの判断に任すほかないという念、オオトリテエに従うほかないという念が生じた。(庄兵衛はお奉行様の判断を、そのまま自分の判断にしようと思ったのである。)」
▽「そうは思っても、庄兵衛は、まだどこやらに腑に落ちぬものが残っているので、なんだかお奉行様に聞いてみたくてならなかった。」
 (※▽は無罪、▼は有罪との判断を表す)

 そして、最後に行き着いたGの判断が庄兵衛の最終的な考えということになる。下級武士が「お奉行様に聞いてみたくてならなかった」と考えるのは常軌を逸しているとも言える。それほど、庄兵衛の罪への疑いが深かったということである。
③一介の同心が奉行所の判決に「腑に落ちぬもの」を感じること自体が、役目からの大きな逸脱である。その意味で衝撃的であると言える。

 私はH説を採る。その理由は次の通りである。
①(B~Fへの反論)作品の組み立てを見れば、B~Fの意見は、喜助の第二の語りにおける「喜助と弟の物語」の中のクライマックス論争になっている。しかし、この作品の主要な事件は、「喜助が弟を安楽死させる事件」ではない。それは過去の事件であり、その事件を通して庄兵衛がどのように変化したのかが主要な事件であると言える。それは、この事件が第三者である語り手を介して庄兵衛の視点から語られていることから判断できる。庄兵衛=視点人物(つまり主人公)、喜助=対象人物なのである。(同時に、この作品は、喜助と弟の物語を内包した庄兵衛と喜助の物語であるという、「額縁構造」になっていることが見えてくる。)
 ところで、杉山明信氏は喜助を主人公と捉え次のように述べている。

 しかし、この作品にまず第一に登場してくるのは『これまで類のない、珍しい罪人』である喜助であり、庄兵衛は彼と『いっしょに船に乗り込んだ』同心として登場するのである。話者は導入部を喜助の物語として語り出すのである。確かに庄兵衛はこの作品における主要な視点人物であるが、この作品における彼の役どころは、喜助の物語を引き出し、解釈してみせる狂言廻し的なものではなかろうか。つまり、『高瀬舟』は主要にはやはり喜助の物語であろうと思われるのである。(読み研編『国語授業の改革①』学文社、2001年)

 杉山氏は、その結果G・Hを否定し、Fを採用されている。
 確かに、庄兵衛が「喜助の物語を引き出し、解釈してみせる狂言廻し的なもの」という主張には一定同意できる。しかし、その帰結として喜助を主人公とすることには疑問が残る。語り手は、喜助の内面を全く語らず、直接話法でしか語らせていない。一方の庄兵衛は、ほとんどが内面の描写となっている。三人称視点ではあるが、庄兵衛の内言(内心の発言)が語り手と部分的に融合するという、「半一人称」とも言える語りの仕組みを見ても、庄兵衛が主人公であることは動かしがたいと考える。

②(Aへの反論)庄兵衛の葛藤をこの作品の主要な事件と見る立場では共通している。しかし、Aは庄兵衛の内面が変化してゆく途中の出来事である。庄兵衛の葛藤は、喜助の弟殺しの告白を聞いた上で、奉行所の判決に「腑に落ちぬもの」を感じるに至るという頂点に達するのである。むしろ、Aは山場が始まる部分であると言える。

(4)終わりに

 クライマックスは決定することそのものに意味があるのではない。あるいは、そこがクライマックスだと覚えても小説を読む力にはならない。なぜそこをクライマックスだと考えたか、つまりそのように考えた「理由」こそが大切なのである……。私は生徒にはそう説明している。
 その上で、クライマックスが見えてくることは、小説を読む上でどういう意味があるのかという問題がある。私の中では、読み研の研究・実践に参加して、最近そのことが明らかになってきた。つまり、「クライマックスが読めることで、その作品のどの部分に目を付ければよいのか、どの部分が重要な形象を支えているのかが見えてくる」ということである。「高瀬舟」に即して言えば、クライマックスが、庄兵衛による喜助の罪に対する疑念の提示にあり、役目からの逸脱にあるとすれば、この作品を読む上で特に注目すべき箇所が「庄兵衛の喜助に対する見方・評価が変化する過程」「庄兵衛が自らの立場から逸脱して行く過程」にあるとの予想が立つのである。
 以上の分析をふまえ、今後は授業化の課題を探っていきたい。