「大造じいさんとがん」の授業

私は、5年生の担任をしている。12月の国語の授業について紹介する。

 学年を代表して校内の現職教育の努力点の授業「大造じいさんとがん」(椋鳩十)に取り組むことになっていた。
 読み研で、名古屋の読み研で科学的読みの授業研究会の定説化シリーズ(明治図書)で出版し、私も担当していた。
 私の中では、公開授業でやる場面は、決まっていた。山場である。大造じいさんが、おとりのがんをつかったところ。そして、はやぶさが襲ってきて、残雪が立ち向かっていく場面である。大造じいさんが、その残雪の姿に感動し、ただの鳥とは思えないじいさんの心境を描いたところである。
 校内の教師も参加する授業ということもあり、やはり、事前より緊張感はあった。しかし、このクラスにもうひとつ私自身がのめりこめないものがあった。奇妙な距離感といったもので、うちとけられないものがあった。そのため、話し合いと討論を避けてきた傾向があった。国語の読みとりの授業としては、今ひとつ物足りなく感じていた。
 校内研究なのでいいものを見せなくてはという思いと、今度はやれないかもという思いで揺れていたので、今回は、自分の気分をどう高めていくのかというのも課題であった。それと、努力点の「高め合う、認め合う授業」ということも、どう織り込むのか課題だった。ただ、国語の書き込みは、子どもにぴったりで、他の教師に見せてもいいという自信をもてるものだった。
 どういう授業をくむのか。迷いもあったが、指導案は早めに作成した。
 事前の検討会では、指導案に対して、磯見先生が、「努力点とのかかわりで、どういう点を見ていったらいいですか」と聞かれ、「グループの線引きや話し合い、全体の読みとりちがいを学び合えるようにしたいですが」と言っておいた。さらに、最後の「大造じいさんが、強く心をうたれて、ただの鳥に対しているような気がしなかったあたりはどう扱われるのか小林先生の授業を楽しみにしています。」と期待をこめたものもあったが。校長の「文学作品は、それぞれの受け取り方があって、子どもの考えがいろいろでてもいいのでは」といった課題が出された。
 多少、こういう注文のこともあってプレッシャーになっていった。
「大造じいさんとがん」の授業に入ってみると子どもの方が集中しはじめて、発言も多くなり、リードしていく子も出てきた。玉部さんであり、竹田君であり、山藤君であり、これに村口君らがからんでいけそうだった。この子たちは、いずれも賢くて、書き込みもはやく、それなりに的を射ていて、発言も明確で、研究授業の国語の時も活躍してくれるという確信が湧いてきた。
 授業の展開としては、三つの立ち止まり、発問を考えた。
○「はやぶさがさえぎったその道とは、どの道か」
○「大造じいさんは、なんで銃をおろしたのか」
○「大造じいさんが、ただの鳥に対しているような気がしなかつたのは、なぜか」
 発問の間に、子どもの発言が自由にでき、それも書き込みにもとづいての形象よみができればいいと思っていた。
 そして、三つの発問のところで、グループの話し合いをこのところに絡ませていけば、それなりに見せる授業になると思われた。
 ただ、この授業でも、時間が足りない事は予想された。かなり手際よくできるようになっていた書き込みが時間をとるのである。グループの話し合いもけっこう時間がかかるのである。
 
 さて、校内の授業研究は、はじまった。
 10名以上の教師の参加で、幾分緊張もあったが、子どもは雰囲気をのみこみ、授業の流れをよく理解していた。一斉音読から、すぐに書き込みを始めた。やはり、参観者にとって、この辺りの展開は、惹きつけられるものをもっているはずである。おそらく、参加者の教師は、 国語の授業の線引きや書き込みは、ていねいにはやってないはずだし、難しいところだから。
 導入の授業からある程度方向は見えてきた。「うまくいくのでは」そして、前日から、用意しておいた小道具もあった。
 私は、出すタイミングを待っている。
「襲ってきたはやぶさつれて、もってきました。」用意しておいた、布に包まれたものをさっととると、笑いがおこる。キジが出てきた。キジの標本である。
参加した、教師たちも笑っている。授業に柔らかさが出てきた。
「さあ、このキジとはやぶさは、どうちがうの」と切り込むが、じっくり考えさせられなくなってきた。時間がなくなってきてあせりがでてくる。
 次へ移っていく。
「その道をさえぎっての道とは?」ここでは、こどもが用意してくれた絵を使う。集中しているのがわかる。
 さて、大造じいさんが銃をかまえるところである。ここでも、鉄砲の小道具を用意しておいた。
 おもむろに取り出すと、子どもの顔が、目が輝きはじめる。男の桑田君や石崎君がのり出してくる。「先生どこからもってきたの」
 そして、私が待っていたように問いかける。
「どうして大造じいさんは、銃を再び下ろしたんでしょうか」
 さっと、ここでグループ会議にはいる。いつもの四人のグループが話しあっていて、まとまりもよく、会議の後のグループの班代表もしっかり、発表している。だんだん時間がなくなり、思い切って、最後の場面に入っていった。
 最後の場面も、班会議もそれなりにうまくいき、読みで幾分流れたものの、線引き、書き込み後から流れついてきて、良い授業になったと思った。

 授業検討会も、まあ、好評のうちに終わった。
 これが、「大造じいさんとがん」での校内授業研究の一場面のできごとであった。