いま、読み研に何が求められるか 実践のシンプルさと理論の深まりを

読み研通信67号(2002.4)

1 週休二日制と新学習指導要領

 二〇〇二年から始まる週休二日制、さらには新しい学習指導要領の中で、中学・高校においても国語の時間数がこれまでよりも減ることははっきりしている。ちなみに、運営委員の東稔さんの中学では一年生では週五時間が四時間に、二年生では四時間が三時間に、三年生では四時間が三時間になるという。私の高校でも、一年生、二年生で週あたり各一時間ずつ国語の時間が減る。それだけに、これまで以上に国語で何を教えるかが問われてくる。
 一方で、近年の国語教育を見ていくならば、音声言語、メディア・リテラシー、読書指導など様々な内容が求められてきている。中高では古典教育もある。
 時間数は減る、求められる内容は多様になってくる。このせめぎあいに、国語という教科はまた読み研は、どのように向かい合ったらよいのだろうか。

2 読み研と国語教育

 今年で読み研は発足十六年を迎える。創立代表である大西忠治氏が『国語教育評論』を編集して読み研方式(当時はそのような呼び方ではなかったが)を世に問い始めてからでも二十年が経過しようとしてる。
 これまでの中で、読み研方式は一定の広がりを持ち(発足当初は数十名の規模の大会であったが、昨年の夏は二〇〇名に迫る規模となってきている)、また一定の認知を受けてきている。例えば、国語教育の世界ではほとんど無視されつづけてきた読み研が、『国語科/重要用語三〇〇の基礎知識』(大槻和夫編・明治図書)では読み研や読み研方式が取り上げられてきている。
 大西忠治氏が読み研方式のもとになる読み方指導を提起されたとき、三つのことを述べられている。
(1)国語教育の、とくに読みとりの方法の、基準のあてどなさ、たよりなさを、すこしでも、たしかさへ近づけたい
(2)授業のやり方をせめて、一つの学校内では、統一的な方向を導き出していくように努力したい
(3)生徒が、教師の授業のやり方を通して、文章の読み方(方法)を自分のものにしていくことのできるようなものにしたい
       *大西忠治『文学作品をどう読ませるか』「生活指導」一九七九年一月
 しかし、大西氏が目指した国語を科学にという願いが、国語教育界を大きくゆさぶるまでにはなっていないというのが現状である。

3 シンプルで柔軟な実践を

 読み研の理論と実践は国語教育の世界で十分に通用するだけの中身を持ち得ていると私は考えている。
 しかしともすれば、読み研の実践はその形式にこだわるあまり、硬直したものとなっていはしないか。また、そのように受け止められるような側面を持っていはしないだろうか。
 実践について考える上では、先の大西氏の三つの思いが重要になると考える。読み研方式は、大西氏のこの三つの思いを根幹として生み出された。表面的な形式にこだわるのではなく、読み研方式の根本の精神に立ち戻って考えることが重要ではないか。
 例えば、前号の柳田さんの巻頭論文でも触れられている「深い教材分析に振り回されて授業が停滞してしまう」問題である。分析したことをすべて授業で扱おうとするあまり、授業がうまく行かなくなる。
 また、読み研方式で授業するとき、文学作品の場合であれば、「構造よみ・形象よみ・主題よみ」のすべての過程を経なくてはならないと考えられてしまうことがある。その結果、膨大な時間数を必要とするから、なかなか読み研方式を取り入れる事がむつかしいと考えるのである。
 教材分析したものをすべて授業で取り上げる必要もないし、すべての授業過程を経なければならないこともない。生徒の状況の分析とその上に立って何を教えるかが明確にされていれば、おのずとそこで取り上げる内容も絞られてくる。
 私は、この四月の高校三年生の授業を志賀直哉の『暗夜行路・序詞』からスタートさせる。この作品は五つのエピソードからなっている。一つ一つのエピソードを順に読み進めて行くのだが(全体の構造をとらえることも、あえてしない)、最初のエピソードでは構造よみはしない。いきなり形象読みから入る。そして二つ目のエピソード(これが『屋根』と大西氏が呼んだ作品で幼い主人公が屋根に登ってしまい、危ないところを母の必死な思いによって助けられるという話である)で、構造よみを教えていく。私の学校の場合、一学年全部を一人の教師が担当することはできない。したがって、三年になってもクラスには私が教えた生徒ばかりではない。だから、三年生でも構造よみから教えなくてはならないのだが、最初の文学作品の授業で構造よみからは入らないのである。それはこの『暗夜行路・序詞』という作品のはじめが、読みの面白さ(冒頭から意外なことが読めてくるのである)を教えるにはふさわしい教材であること、もう一つには最初のエピソードは事件らしい事件が描かれなくて、構造よみするのに適していない作品であるからである。(ただ、構造よみに適していないから、構造よみをしないのではない。構造よみをはじめて教えるにはふさわしくない作品だから、しないのである。生徒に教える場合、最初は典型的なものから教えるのが原則である。)
 生徒の状況、教科書の教材配列、さらには学校独自の事情など……それらを総合的に勘案しながら、生徒に読みのものさしを持たせ、読み方を教えることができていけばよいのではないか。
 もう一つのポイントは、実践をよりシンプルなものにすることである。
 例えば、私は形象よみにおける着目のポイントを最近は次の三点で教えている。
 (1)繰り返し 
 (2)変化 
 (3)普通とは異なる表現(文体)
以前は、セオリーどおり「事件・人物・文体」と教えていた。しかし、事件の発展、人物の性格の深まりと説明しても、生徒がそのような箇所を見つけることは容易ではない。着目の観点として、もう一つピンときにくいところがあるのである。それに対し「繰り返し・変化・普通とは異なる表現」はどこに着目すればよいのかという点ではわかりやすい。繰り返しでてくる表現、前とは変わっているところ、普通とは違う変わった表現をしているところ。表現のどこに目をつければよいのか、生徒はこの三つを手がかりにすぐに探していくことができる。生徒がすぐに使えること、まずはその点を大事にしたいと私は考える。
 また、説明的文章における実践では、実践的な工夫は文学作品以上に求められる。説明的文章をどう読むのか、国語教育の世界にはまだまだ大きな隔たりがある。「柱」という用語を用いるのは読み研だけであるし、「柱とそれ以外との関係」などという捉え方もほかではしない。その上、「柱」という概念を簡潔にわかりやすく説明することはなかなか難しい。
 このあたりの問題は、授業だけでなく読み研の大会や研究会の中でも現れている。はじめて読み研に来た方も、「柱」にはとまどいを見せる。文学作品の場合、ある程度読み研用語の説明を受ければ、研究会の議論に参加することはそれほど難しいことではない。それに対して、説明的文章の場合は、文学作品ほど議論について行くのが容易ではない。「柱」・文や段落の関係といったことがらは、少し説明を受けただけでは、なかなかむつかしいのである。
 それは従来の説明的文章指導のあり方が、文・段落の関係を考えさせるのではなく、内容的な指導に重きを置いていたことの問題でもがある。しかし、だからといって、文や段落関係を捉えることがいいかげんでいいわけではない。
 といっても、文や段落関係を執拗にとらえさせようとすることにも問題がある。それが、説明的文章の読み方指導の困難さを生み出すことにもなっているのではないか。もともと「柱」を使って文・段落関係をとらえていくことは難しい。教材研究をした場合でも、読み研の教師の中でさえ、分析がわかれることはまれではない。そのような教材で、文・段落関係をとらえることをどんどん生徒に迫っていくのでは、かえって授業の混乱や生徒自身のわかりにくさを生み出すことになりかねない。説明的文章の実践でも、構造よみからいきなり吟味よみに飛ぶようなことがあってもよいだろう。あるいは文章の中の一部分だけを取り上げて文・段落関係をとらえさせるようなこともあるだろう。要約よみだからといって、すべての段落や文関係を捉えさせなくてもいい。また教師の分析ですらゆれているような箇所を、あえて取り上げて生徒の混乱を引き起こすことも有益ではない。生徒の力があまりない場合には、わかりやすいところだけを取り出して、読み取らせればいいだろう。力をつけてきた生徒たちであれば、文関係・段落関係をとらえることがその文章の吟味と大きく関わるところを取り上げて読み取らせてもいい。
 教材を分析をすることと、授業化することをきちんと分けていくことが大事である。
 実践をシンプルなものにして行くためには、教科としての展望が必要である。柳田さんは小学校において六年間を見通した「基礎・基本項目を明確にした指導構想」を提案している。中学・高校においても同様なものが求められる。ただ、当面するところで言えば三年間といかないまでも、一年を見通した授業構想を教師は持つ必要がある。
 中学・高校の場合、教科担任制であり、同一学年を持ちあがる場合でも、すべての生徒を同じ教師が三年間担当していくことは、なかなか難しい。複数の教師による相持ちの場合が多いし、クラス変えの問題もある。したがって、三年間の指導構想よりも、まずは、一年間をどう見通すかが重要になる。

4 理論としても深まりを

 実践の上でのシンプルさと、理論上での深まりとは決して矛盾するものではない。理論として深みを持てば持つほど、より何が本質的なことがらかが明らかになる。そのことが、どう教えるかという時に、大事な点を浮き上がらせてくれる。それが実践におけるシンプルさにつながる。
 理論を一層深めて行くための課題というべきものをここでは挙げておきたい。
 ひとつには、これまでの読み研理論をもう一度再検討していくことである。これまでの理論を否定するという意味ではない。例えば、詩の読み方は「起承転結」で、という時の「起承転結」とはなにか、それをもう一度とらえ直してみることである。読み研では当たり前であることを、外の目から捉えなおすことで、わたしたちの理論と実践はより深まりを持ったものになるのではないか。
 文学作品の構造よみひとつとってみても、まだまだ考えなくてはならない問題が山積している。「事件」とは何か。事件の流れとは、どのように規定できるのか。大西氏が規定したものを受けながら、さらに深く追究されていかなくてはならない。また、大西氏はプロットとストーリーを統一したものとしてとらえてきたが、果たしてそれでよいのか。(すでに阿部昇氏はそれに対して、異論を提出されている)
 説明的文章に至っては、文学作品以上に検討課題が多くある。(今は個々に触れている余裕はないが)
 いま、読み研は深い理論に裏打ちされたシンプルな実践をつくりあげていかなくてはならない。単純な理論はシンプルではあっても平板な実践しか生み出さないのである。