小学校 物語の教材研究 (東書・小一)「おとうとねずみ チロ」(もりやまみやこ)を読む その2

その1/その2/その3

4〈二場面〉と〈四場面〉を比べる
 兄さんや姉さんに「チロのはないよ」と言われたとき、チロはとても心配して、おばあちゃんに自分の思い(あるいは自分の存在)を伝えたいと思う。しかし、字が書けないチロには、思いを伝えるすべがない。そこで考えたのが、丘の上から大きな声で叫ぶことだった。
「おかのてっぺんの木に立つと、たにをはさんで、たかい山が見え」、「おばあちゃんのうちは、あの山のずっとむこうがわ」にある。しかし、チロは大きな声で叫べば、声を届けられるのではないかと思う。そして、チロの声が山びことなって次第に小さくなっていくのを、声がおばあちゃんのところに飛んでいったと思うのである。
しかし、〈二場面〉の後に、おばあちゃんのところに声が届いたというはっきりとした証拠はない。また、この時点でチロがどのような思いを持っていたかは、書かれていない。
〈二場面〉の後、おばあちゃんから小包が届くまでの何日間か、チロはどんな思いで過ごしたのだろうか。
声がおばあちゃんに届いたから、チロのチョッキも絶対に届くと確信を持っていたのだろうか。それとも、おばあちゃんに声届いたんだろうかと、ちょっと不安だったのだろうか。
チロがどんな気持ちでおばあちゃんからの荷物が届くのを待ったのか。ここでのチロの気持ちを、子どもたちに考えさせてみたい。ただし、自由勝手に想像するのではなく、できるだけ〈二場面〉の表現に基づいて考えさせるようにしたい。
〈二場面〉では、チロは三つの言葉をおばあちゃんに向かって言っている。
「おばあちゃあん……。」
「ぼくは、チロだよう。」
「ぼくにも チョッキ、あんでね。」
 この三つの言葉の間には、少し時間差がある。「おばあちゃあん……。」と呼びかけ、その声が「だんだん とおくなっていく」のを聞いて、チロは声が「おばあちゃんちへ とんでった」と思う。つまり、「おばあちゃあん……。」と叫んだ時点では、チロは声がおばあちゃんのところに届けられると、確信していたわけではないのだ。
 自分のチョッキも編んでもらいたい、という思い(そしてそれをおばあちゃんに何とか伝えたいという思いも)から、チロは丘に登って叫んだのだ。字の書けないチロができるただ一つのことが、丘の上から大きな声で叫ぶことだった。 そして叫んでみて、声が「おばあちゃんちへ とんでった」と思ったのだ。
 だからこそチロは、「うれしがって とびはね」「まえよりも こえを はり上げて」「ぼくは、チロだよう。」と言うのである。
 そして、その声が「だんだん ほそく、小さく なって」いくのを聞いて、やっぱり声がおばあちゃんちへ飛んでいっていると思うのである。
 だから最後に「大きく 口を あけ、いちばん だいじな こと」=「ぼくにも チョッキ、あんでね。」と言うのである。
〈二場面〉の、チロの三つの言葉の言い方の違い、その裏にあるチロの気持ちの変化を丁寧に見ておくことが大事なる。〈二場面〉を通して、チロは自分の声がおばあちゃんに届いた(届けられた)と思うようになる。ただし、届いたことを確かめるすべはないのだから、一〇〇%の確信がチロにあったとは言い切れない。
 何日かして、三枚のチョッキが届き、チロの分もあったことから、チロはおばあちゃんに自分の声が届いたことを確信する。その気持ちが行動として示されるのが、〈四場面〉である。
〈四場面〉のチロは、丘に登り、迷うことなくおばあちゃんにお礼を言う。チロは、自分の声がおばあちゃんに届いたから、チョッキを編んでくれたと思っているのである。
 チロは大声で次のように言う。
「おばあちゃあん、ぼくは、チロだよう。しましまの チョッキ、ありがとう。」
 この言い方を〈二場面〉の言い方と比べて見るとよくわかる。〈二場面〉では、三つに分けて言っていたが、〈四場面〉では一気に言っている。
 チョッキが届いたことで、チロはおばあちゃんに自分の声が届いたことを確信している。だから、声が飛んでいっているのをいちいち確かめる必要はない。伝えたいことを一気に言っているところに、自分の声がおばあちゃんに届いたと思っている、チロの気持ちが読みとれるのである。