国語科教育法通信

 加藤が担当している大阪樟蔭女子大学の教科教育法の授業では、毎回授業通信を出しています。その一部を紹介します。罫線で囲った部分は、授業の最後に学生から出された授業についての意見や疑問・質問などです。授業通信の主な内容は、それらへの僕なりの答えです。国語の授業だけでなく、生活指導的なことにも答えたりしています。
 説明的文章の読み方指導で「モアイは語る」(光村中二)をやった後です。また「魚の感覚」をその前にやり、12段落だけのリライトをしてもらったものから選んだものがその後に載せてあります。

国語科教育法通信 

19号 発行・加藤郁夫
2005年10月26日

 5段落で「ポリネシア人が11世紀ごろに突然モアイの製造を始める」→「人口の急増」と本文はなっているけれど、傍線部に何か関係があるのだろうかと疑問を持った。モアイは造るのも運ぶのも大変なのに、人口の急増の方がモアイの製造より後になるのはなぜなのだろうか……。

 こういう疑問大事にしたいですね。
 もちろん、この文章だけ読んでもこのような疑問を解決はできません。他の資料を調べてみないことには分からないわけですが、吟味よみはこのような疑問からスタートするのだと思います。

 7段落に「このとき初めて、モアイに目の玉が入れられた。」とありましたが、この「入れられた」は、石を彫って目の形を作ったという意味の「入れた」か、何か別の石やガラス玉を目として「入れた」という意味なのか、どちらなのだろうかと思いました。

 そうですね。これも吟味の一つですね。吟味よみの基本として、まず自分にとってわかりにくいところを探すということがあります。すっとわかってやらない、ぼんやりとした理解でおさまってしまわない、そういうことが大事だと思います。よくわかっていないのに、わかったつもりになってしまうことはコワイことです。

 最後の吟味で先生がモアイはなんで巨大だったのか?っていうことが書かれていないと言っていましたが、この説明文でそれを書くことは絶対に必要なのでしょうか?

 必要か必要でないかは意見が分かれるところかもしれません。ぼくはこの文章で「巨大な石像」「あれほど大きな像」「絶海の孤島の巨像」……と大きさに触れている以上、なぜ巨大でなくてはならなかったのかは、説明してほしいと思いました。もちろん、それに触れていないからこの文章はだめだというのではありません。
 文章に対する自らの疑問をぶつけることも吟味の一つとして、あってよいと思います。

 内容を読みとる時に、いくつかに分けるというやり方で、一つの段落で疑問とその答えが書かれている場合、その段落は一つで区切れるものですか?「モアイ」の文章では8段落がそういう風にとらえることができると思うのですが。

 一概には言えません。大事なことは、そこで区切るか区切らないかではなく、どのような規準で区切ったのかということです。また、そのような区切り方をすることで文章構成がはっきり見えるようになったかどうかです。
 文章を区切るために構造よみをするのではありません。区切ることを考えていくことで、その文章で述べている内容が大づかみに把握できるということが大事なのです。

「モアイは語る」の構造よみで、3・4段落を分けるか分けないかで、どちらも間違いではないということでしたが、このように答えが一つとは限らない問題を試験に出す場合は、どちらも正解とすべきですか?

 試験に出す問題では、紛らわしいところや、教師自身が教材研究でゆれたところは触れない方がよいと思います。試験は何が正解で何は不正解ということが明確であることが求められます。教師が正解をきちんと説明できないようなところを試験に出すことは、試験に対する不信感を生み出すことになります。

 自分である程度答えを出した時に、その答えが合っているかどうかのゆさぶりをかけてみることが教材研究につながることは分かるのですが、ゆさぶり方がいまいちできません。

 国語の教師は、ともすれば教材研究において主観的になりがちです。自分の読みを絶対化しがちです。常に自分の考えを、自分で疑っていくという姿勢をもつことを大事にしてほしいと思っています(自らへの自戒を込めて言うのですが)。まずは、自分の考えをもう一度見なおしてみるということを、きちんとやってみましょう。

 本文をいくつかに分ける時、分けたのが本当に正しいのかを考え、詳しく見ていくというのが、毎回難しいです。いつも考えているつもりですが、他の意見が出た時、そういう読みもできるのかと思うことが多いです。授業ではたくさんの人がいて、いろいろな意見が出て、それに対して考えたりできるけど、実際に一人で考えていくことになったら、ある程度できるのか不安です。

 自分一人で答えを出さなくてはならない、という場面は意外に少ないです。友人や同僚に遠慮なく聞いていけばよいのです。わからなければ、あるいは迷ったら人に聞くという姿勢をきちんと持つことが大切です。

 先生は生徒を更に考えさせたり、迷わせたりするのが上手だと感じます。こちらもまわりと意見が一緒で、安心しっぱなしなのも原因ですが、絶妙のタイミングで問いかけてきます。そのポイント(生徒の様子などで)があるならば知りたいです。

 うーん……「絶妙のタイミング」と言われるほどかどうか分かりませんが、大事なことは二つあると思います。
 一つは、教材研究。自分がたっぷりしておけば生徒の多様な反応にも対応できます。二つ目は、生徒の様子をみること。ただ、生徒を見ていくのはやはり経験が大事になっていくと思いますが。

 今、小学生が教師をけったりして暴力をふるう、挙げ句の果てに「おまえら(教師)がやったら(暴力をふるったら)体罰やぞ」といって脅迫する、教師はとめることしかできないといったことを新聞やテレビで見ました。私が小学生の頃とはずいぶん変わってきているんだなと呆然としました。全員がこういう子たちとは思わないけれど、こんな子たちが中学生・高校生になってくるかと考えると不安になりました。

 そうですね。昔は、教師というだけで権威がありました。今はそうでもありません。それだけ難しい時代にいるのだと思います。
 でも、ぼくはそれほど悲観もしていません。ぼく自身これまでの教師経験の中で、殴られること以外は(胸ぐらを捕まれたことはありましたが)、おおよそのことは経験してきました。大事なことは、毅然として冷静に対応することです。そして日常的な生徒との関係をどう作り上げていくか(これは言い換えれば、生徒をどのように見、どのように接していくかということですが)を大事にすることです。
わからない授業をしている先生は、生徒にとって信頼するに足りますか?できない生徒を置いてきぼりにする先生を、生徒は頼りにするでしょうか?理由も聞かずに、怒る先生を生徒は尊敬するでしょうか?……普段生徒にどのように接し、応対しているか、授業をどのように進めているか、日常の積み重ねが生徒の教師への信頼感を作り出していくのだと思います。
「おまえら(教師)がやったら(暴力をふるったら)体罰やぞ」という生徒と、言われる教師の間に日常的にどのような関係があったのかをぼくは考えたいと思います。

 先生の話の中で、遅刻した子を違った面で見て「遅刻したけれど来てくれてうれしい」とおっしゃっていましたが、個人的に声をかけるのはいいことなのでしょうか?この場合、「遅刻すれば誉めて(というか声をかけて)もらえる」や「遅刻しないで学校に来ているのに何も言ってもらえない」という子も出てくるのではないでしょうか?

 遅刻を肯定的に生徒に対して評価するのは、その生徒が休みが多かったりする場合です。また、遅刻しない子には声をかけないというのでもありません。生徒それぞれの肯定的な面を見て、その子にあわせた評価をしていけばよいと思います(この場合の評価とは点数を付けるというのではありません)。大勢の生徒に対する時、教師も多様なものさしをもって、生徒に対応することが求められると思います。

「魚の感覚」12段落のリライト

◎Sさん
 やがて、8時になりました。しかし、鐘を鳴らさずにいると、ますは集まってきませんでした。そして、9時に鐘を鳴らすと、えさ場付近がにわかにさわがしくなって、ますが集まってきました。口を水面に出してたがいに他を押しのけるように寄り集まったためまるで、夕立がかわいた木の葉をたたくような、やかましい水音がしています。これで、ますが時間で集まってきているのではなく、鐘の音を聞いて集まってきていることがわかりました。ますには音が聞こえていたのです。ラドクリッフ博士も、これを見て、自分の考えを変えないわけにはいきませんでした。

◎Tさん
 魚は本当に鐘の音が聞こえて集まっているのか確かめるために、その日は八時ではなく九時に鐘を鳴らしてみました。博士は、いつも鐘が鳴っている八時に池のあたりにいってみました。しかし、魚は全く集まっていませんでした。そして、いつもは鐘を鳴らさない九時に鐘を鳴らして、池の様子を見に行ってみると、ますは水面に口を出し、たがいに他を押しのけるようにして寄り集まっていました。このことから、ますは水にうつる番人の影を見て集まるのではなく、鐘を聞いて集まっているということが分かりました。つまり、ますは音が聞こえるということがはっきりわかったわけです。

◎Oさん
 やがて、教会のかねが鳴りだしました。えさ場付近が、にわかにさわがしくなって、ますが集まってきました。口を水面に出して、たがいに他をおしのけるようにして寄り集まったため、まるで、夕立がかわいた木の葉をたたくような、やかましい水音がしています。これがほんとうに、鐘の音が聞こえて集まっているのかを確かめるために、次の日の八時に鐘が鳴らないように教会に頼みました。そして、九時に鐘が鳴るようにしてもらいました。すると、次の日八時に池の様子を見に行くと、ますは集まっていませんでした。しかし、九時に鐘が鳴り出すと、いつものようにますはえさ場へ集まってきました。このことから、ますは鐘の音が聞こえていることがわかりました。ラドクリッフ博士も、これを見て、自分の考えを変えないわけにはいきませんでした。

◎Hさん
 やがて、八時になり、教会のかねが鳴りだしました。すると、えさ場付近が、にわかにさわがしくなって、ますが集まってきました。この検証の後、ラドクリッフ博士は、ますの体内時計が関係している可能性を考え、次のような実験をしました。それは、八時になってもかねを鳴らさない場合と、時間を少しずらしてかねを鳴らす場合のますの反応を調べるというものでした。この実験で、ますは八時になってもかねが鳴らなければ集まらず、時間が過ぎていても、かねが鳴るとすぐに集まってくるという反応をしました。これから、ますが音を聞けることがわかりました。ラドクリッフ博士も、この実験結果で、自分の考えを変えないわけにはいきませんでした。

◎OHさん
 やがて、教会のかねが鳴りだしました。すると、えさ場付近が、にわかにさわがしくなって、ますが集まってきました口を水面に出して、たがいに他をおしのけるようにして寄り集まったため、まるで、夕立がかわいた木の葉をたたくような、やかましい水音がしています。しかし、博士は「これだけでは、ますは音が聞こえているとは言えない。もしかしたら、ますは体内時計によって、朝八時に集まってきているのかもしれない。」と言いました。そこで、次の日の朝八時に教会の鐘を鳴らさずに、朝九時に鐘を鳴らしました。すると、ますは鐘を鳴らした九時に集まってきました。これで、ますは音が聞こえていること、はっきりがわかったわけです。ラドクリッフ博士も、これを見て、自分の考えを変えないわけにはいきませんでした。

「あたらしい国語科指導法」についての質問・疑問に答える 4

 第二章第七節 古典の授業は、口語訳までで終わらない授業をしなければならないと書かれていた。これから、古典の授業時間が減っていくといわれる中で、どうすればそのような授業ができるのだろうか。実際口語訳まですれば十分というような授業が多かったので、少し疑問に思った。

 いわれるように、今後古典の授業時間は少なくなっていくと思われます。少ない中で、口語訳まででも精一杯なのにその先をどうするのかという疑問は当然です。
 授業は、その時間ですべてのことをやる必要はないということはこれまでも話してきたと思います。その授業で何を重点に置くかということを教師は考えておかなくてはなりません。重点を決めたら、重点以外のところはさらっと流していくことも必要となります。
 少ない授業の大半が口語訳をすることに当てられることもやむを得ないと思います。ただ、そのような中でも口語訳に終わらない授業を一時間でも二時間でも作っていくことの大切さを教科書では述べたつもりです。そういう授業があることで、口語訳に終わった教材でも、その先をどのように発展させていけばよいのかを考えることが可能になります。
 口語訳に終わる授業は容易ですが、そこから更に発展させた授業は、教材研究がたいへんです。どれだけ教師が教材を読み込めるかが、カギになります。