「藪の中」の構造を読む

読み研通信95号(2009.4)

1 はじめに

「藪の中」を辞書で調べると、「(芥川竜之介の同名の小説から)関係者の言うことが食い違っていて、真相が分からないこと」(『広辞苑』第四版)とある。それほど有名な作品であるにもかかわらず、関係者の語りのみで構成されていること、事件の真相(誰が真犯人なのか)が最後まで明かされないこと、等の理由により、難解な作品の一つであることは間違いない。しかし、今回、教材分析をふまえて授業化を試みたところ、かなり豊かな形象性を持つ作品であり、高校3年生であれば授業化が有効であることがわかった。紙幅の都合により、今回は構造よみについて提案する。

2 構造を読む

※便宜上、各証言にA~Gの記号を付ける。
(1)作品構造の特徴
1) この作品には地の文がない。会話文=証言のみによって構成されている。ただし、各証言には題名が、一部括弧にくくられたト書きがある。題名とト書きは文語調で統一され、本文の口語調と明確に区別されている。ただし、多襄丸のト書きには、本人の発言と思われるものが一箇所だけある。
2) A~Dは事件の第三者による証言、E~Gは事件の当事者による発言である。前半が問題提起編、後半が解決編となっている。
3) A~Eは検非違使による尋問に対する発言であるが、Fは清水寺での発言、Gは巫女が語っているので、どこかの神社であろうか(不明)。
4) A~Eは聞き手が検非違使であり、殺人事件の裁判という統一した世界を構成している。一方、Fの聞き手は清水寺の住職、もしくは「仏」と考えられる。Gの聞き手は不明。Gは文体が常体であること、他の証言が尋問に対する返答になっていることと比べて完全な独白であることから、検非違使庁での発言ではないと読める。口寄せが民間の祈祷師の仕事であることを考えると、男の家族が巫女に依頼したものかもしれない。あるいは、Fの仏と対比して、「神」か。いずれにせよ、A~EとF・Gとは、統一した作品世界を構成していない。
5) A~Dへと展開するに従い、「多襄丸犯人説」が証言によって浮き彫りになり、Eの本人の「白状」によりそれが動かぬ事実となる。検非違使庁においては、多襄丸が犯人として裁かれることであろう。しかし、F・Gの発言により、読者にとっては全てがひっくり返されるという仕掛けになっている。
6) 統一した世界が構成されていないのはなぜか。もし、全てが検非違使庁で語られたならば、死体検分により真実がある程度裏付けられる。それを避けるために、作者はわざとF・Gの舞台設定を変更し、統一した語り手の存在を消去したのではないか。当然、現実の裁判としては多襄丸が有罪となるのは間違いない。そうだとすると、検非違使の裁定は重要ではないということになる。誰が真犯人なのかは重要ではなく、なぜ各人が「自分が犯人」と主張するのかの理由を読者に考えさせることに主眼が置かれているのではないか。

(2)構造よみ
 この作品は、七つの証言の羅列であるため、通常の構造よみで適用する五つの点(冒頭・発端・山場の始まり、結末・末尾)が用いにくい。そこで、まずは七つの証言を分類するところから始める。
「薮の中」の構造表は次の通りである。

〈導入部なし〉

〈展開部〉

 A検非違使に問われたる木樵りの物語
 B検非違使に問われたる旅法師の物語
 C検非違使に問われたる放免の物語
 D検非違使に問われたる媼の物語

〈山場の部〉
 E多襄丸の白状
 F清水寺に来れる女の懺悔
 G巫女の口を借りたる死霊の物語

〈終結部なし〉

(3)理由
1)この作品の事件は、「男はどのように、なぜ、誰によって殺されたのか」が明らかにされていく過程である。木樵りの証言が始まるAにおいて、事件は動き出している。したがって、導入部はなく、Aの書き出しが発端となる。
2)事件の当事者が語り始めるE・F・Gが、真相解明の最も重要な証言であり、山場の部と考えられる。
3)最終的に、真相がどうなったのか、当事者三人はどうなったのかが示されていないので、終結部はないと読める。
4)したがって、「展開」「山場」の二部構成のパターンである。(以上をA説とする) 
7) もう一つの読み(B説)として、二部構造ではあるが、F・Gを山場の部とする読みもあり得る。前項で見たように、この作品は統一した世界を構成していない。場所が検非違使庁かそうでないかという点、Eまでの普通の展開とFからの予想外の展開という点が根拠となる。
8) しかし、B説には次のような反論が可能である。DとEの間に区切り記号がある。真相が提示されていない以上、三人の当事者の証言は真相からの距離では対等であり、F・Gを特別視することはできない。

(4)クライマックスをどう読むか
 まず、E・F・Gが事件の真相から等距離であるとすると、(少なくとも構造よみ段階では)クライマックスを一つに決定することが不可能となる。
 では、どうするか。山場の部である、E・F・Gそれぞれにクライマックスがあると仮定してみる。すると、次の三箇所あたりが考えられる。それぞれに殺人の瞬間が語られている箇所である。殺人(死)を語る以上、その瞬間が最もアピール性が高いからである。

E「わたしの太刀は二十三合目に、相手の胸を貫きました。二十三合目に、──どうかそれを忘れずに下さい。わたしは今でもこの事だけは、感心だと思っているのです。わたしと二十合斬り結んだものは、天下にあの男一人だけですから。」
F「夫はわたしを蔑んだまま、『殺せ。』と一言云ったのです。わたしはほとんど、夢うつつの内に、夫の縹の水干の胸へ、ずぶりと小刀を刺し通しました。」
G「おれの前には妻が落した、小刀が一つ光っている。おれはそれを手にとると、一突きにおれの胸へ刺した。何か腥い塊がおれの口へこみ上げて来る。が、苦しみは少しもない。」

 ただし、この作品においてはクライマックスを読みとる意味はほとんどない。「真相が不明である以上、クライマックスは読めない」と説明して、構造よみを終える方が賢明である。

(5)この作品の構造を読む意義
 この作品の構造よみで重要なのは、A説で終わることなく、B説の可能性に目を向けさせることである。そうすることによって、次の二つのことを理解させる。
1)典型構造のモノサシを適用すれば、例外的な構造を持つ作品も読みとることが可能である。
2)「展開・山場」という表の構造だけでなく、作品世界の不統一という、裏の(隠された)構造に気づくことができる。
 構造よみをすることによって、「なぜ真砂は検非違使庁ではなく清水寺で懺悔しているのか」等の謎が見えてくる。
 下記に、語りの構造図を示す。(要ダウンロード)