京都文学散歩(3) 「それでも私は行く」と「活動寫眞の女」

「それでも私は行く」は、織田作之助の作品です。昭和21年、京都日日新聞(後の京都新聞)に掲載され、たちまち町の評判となり、題名の「それでも私は行く」という言葉は、ちょっとした流行語になったそうです。

 先斗町のお茶屋「桔梗屋」の息子梶鶴雄は、女たちにぞっと寒気を覚えさせるほどの美貌の三高生です。しかし彼はお茶屋商売という家の環境がたまらなくいやで、毎日目的もなく外を遊び歩いて作品は進んでいきます。

 「その日も、ふらっと外に出ると『ぼんぼん、どこイお行きやすンえ…?』と、芸者の君勇につきまとわれるのを振り切って、さっさと先斗町の路地を出て行った。四条の電車通りを横切って、もとの『矢尾政』、今は『東華菜館』という中華料理店になっている洋風の建物の前まで来ると、鶴雄はポケットから小さな象牙のサイコロを掌の上へ転がした。『偶数が出れば東だ!』東の方向の円山公園では女が待っているはずだが、サイコロの目は奇数だったので、彼はその女のことは黙殺して、四条河原町の方へ歩き出した。
 いつも行動を決しかねるとき、鶴雄が振ってみせるそのサイコロは、自分では決して口外しないが、じつは彼を慕っているまだ17歳の舞妓鈴子からもらったものである。彼もひそかに鈴子を愛していた。」

 四条河原町で買ったスピードくじの一等賞金百円をすられたことから、鶴雄は若い女スリ弓子を知ることになります。彼女の姉は、木屋町で住み込みのヤトナをしていて、新円成金の小郷虎吉に力づくで犯されます。弓子は姉を身受けする金をかせぐためにスリを働きながら、小郷への復讐の機会を狙っていたのでした。作品は、主人公の鶴雄の振るサイコロの目のままに、その先々に登場する多彩な人物群が偶然にからみあってスリルに富んだドラマを展開するという仕組みになっています。

 作品の中に、「べにや」という しるこ屋が出てきます。私が訪ねた時は「グリーン」という喫茶店になっていて、たまごサンドが有名でした(だし巻き卵がサンドされていて、一口にほうばることができません)。しかし残念ながら、その後お店は無くなってしまいました。べにやのあった場所は、今でいうと西木屋町の繁華街です。夜になると、今でもブルー、ピンク、レモンイエロー等の提灯の灯りが高瀬川の流れに映って町のにぎわいを演出しています。高瀬川を背にした鶴雄のサイコロをふる姿が浮かんでくるようです。

 「活動寫眞の女」は浅田次郎の作品です。京大に入学したばかりの三谷薫は、何気なく入った映画館で1年上の清家忠昭と知り合います。映画マニアの二人はたちまち心を許し合い、清家の知人である辻老人が働く太秦(うずまさ)の撮影所でアルバイトすることになります。そして同じ下宿の女子学生、結城早苗と3人でエキストラとして映画に出演した日、彼らは芸者姿の若く美しい女優(亡霊)に出会い、物語は進んでいきます。

 「撮影が終わると、女はかき消すように姿を消していた。サインを求めた早苗の手帳に「伏見夕霞」という文字を残して。」しかし伏見夕霞はずっと昔に、天才監督の後を追い自殺した女優だったのです。そんな夕霞に清家は激しく惹かれていきます。そして虚と実がないまぜになった世界にどんどん入り込んでいくのです。

「ある夜、清水寺で出会った清家の背中には、ほの白い煙が立ちこめていた。僕らに向かって微笑みながら近よってくる清家の歩みに合わせて、煙は明らかな人形(ひとがた)になり、目を疑う間もなく藤色の浴衣を着た伏見夕霞の姿になった。」現とも幻ともつかぬ儚い陰画(ネガ)のような恋と、確かな手ざわりのある陽画(ポジ)の恋とがますます混迷していき、最後は…。

 舞台となったと思われる大映太秦撮影所は、すでに閉鎖されています。今はフィルムをかたどったカラー舗装が施された大映通り商店街が残るのみですが、銀幕のスターたちが闊歩した盛時はしのぶべくもありません。私が知っているのは、三条通りを隔てた東映太秦映画村です。家族連れや修学旅行客でにぎわい、今もテレビの時代劇の収録も続いています(今は自粛中であまり人通りはありません)。

〈参考文献〉
・河村吉宏 他 「京都文学散歩」 京都新聞出版センター 2006年