子どもの暴言の裏にあるもの

 構造よみの授業で白熱した討論場面を作り出したい。形象よみの授業で登場人物の心の奥底をすくうような深い読みを出させたい。しかし、なかなかうまくいかない。まずは子どもたちの持つ言葉が貧弱だ。それだけならまだしも、耳をおおいたくなるような暴言の横行。何とかならないものか。
 このような悩み事を聞いた。
 子どもたちの言葉の乱れは確かにひどい。「うざい」「キモい」「死ね」。このような、互いの関係を断ち切る暴言が飛び交っている。さらに「はぁ?」「いみわかんねぇしぃ~」といった人を小ばかにしたような物言いもよく耳にする。
「昨日のポケモンおもしろかったよね!」
と投げかける級友に
「はぁ?普通ポケモンなんて見る?」
「ほんと、うざいんだよね。」
「あんなの見てるやつってキモくない?」
と返す。
 これでは対話を進める気持ちなど生じない。このような関係が授業にも引きずり込まれ、白熱した討論や深い読み取りの妨げにもなっているのだろう。
 では、どうするか。こういった暴言がいかに人を傷つけ、人間関係を分断させるかといった、言葉自体の取立て指導ももちろん大切だ。
 そして、それに加えて行なうべきは暴言を吐く子どもの背景、気持ちを汲み取ることだ。「背景や気持ち?そんな悠長な状況ではない」との声も聞こえてきそうだ。それほど、彼らの暴言は教師の心、プライドなどをもずたずたにする。我を忘れ、苛立ち、子ども以上の言葉でののしり返した経験を持つ先生方も多いであろう。
 しかしそこはグッとこらえ、まずは彼らの話しをじっくり聴いてみる。そして彼らの思いに共感するよう努めてみることが大事ではないだろうか。
 五年生を担任して間もなくのころ、次のような出来事があった。
 AとKという二人の男子の暴言がひどすぎるという訴えがあった。彼らは「うざい」「キモい」「死ね」といった言葉を誰彼かまわず浴びせる。何とかしてほしいという訴えである。「言われた子?」と問うと、学級の半分以上が挙手した。この事実に対しKは、
「オレ、言ってないしぃ」
などとしらばくれた。
「君は『言ってない』と言うが、ほら、こんなに多くの子が言われたと
挙手しているではないか」
と詰めた。が、のらりくらりと逃れるばかりである。一方のAは発言の事実を認めた。そこで「君自身がこのような言葉を投げかけられたら、どんな気持ちになる?」と問うた。するとAは
「別に何とも思わない。」
とうそぶいた。
 この二人の対応には腹立たしさを覚えたが、思うことがあり、それなりにまとめて話し合いを終えた。その後二人を別室に呼び、話をした。二人とも「言ってないと思う」、「自分が言われても何とも思わない(不快には感じない)」という先ほどの主張を繰り返している。そこで、先ほどの「思うこと」を聞いてみた。
「君たち、何か、ストレスがあるのではないか?K君はサッカーのこと、A君は野球だ。君たち、それぞれのスポーツが好きなのだが、嫌なことがたくさんあって、本当は辞めたいと思っているのではないか?」
 この言葉に二人とも大きな反応を示した。Kは涙を流しながら、自分が所属するサッカーチーム(スポーツ少年団)でたくさんの嫌がらせを受けていることを話した。Aも涙を浮かべながら、野球チームを退団したいが、許してもらえない苦しさを吐き出した。先ほどのふてぶてしい態度からの急変に、私は面食らう思いであった。
彼らはそれぞれのチームで、たくさんの暴言を受けているようだった。
 Kの所属するサッカーチームでは、「うざい」「キモい」「死ね」といった類の言葉は、単なる「あいさつ」なのかもしれない。だから、Kが「言ってない」というのも、正直なところなのだろう。私達が「おはよう」というあいさつを無意識に発するように、彼はすれ違う級友に「キモい」などと言うのかもしれない。
 またAが「不快に感じない」というのもわかる気がする。休日に、心無い暴言をシャワーのように浴びせられれば「免疫」もできるだろう。そんな言葉にいちいち傷ついていては、生きていけないのだ。
 彼らは自分が抱える苦しい思いをたっぷり話したあと、素直に謝罪した。Kは「たくさん言いました。」、Aは「僕だって、言われたくない」とそれぞれ前言を撤回した。
 言葉は生きものである。暴言の裏にある苦悩、逆に美しい言葉に隠れた冷たさ、そういったことを読み取れるような国語教師でありたいと思う。