「蜘蛛の糸」(芥川龍之介)の教材分析
◆構造・構成のよみ
冒頭 ある日のことで・・・
発端 すると、地獄の底に・・・
山場のはじまり すると、一生懸命に上ったかいがあって、・・・
◎クライマックス 今までなんともなかった蜘蛛の糸が、急に犍陀多のぶら下がっている所から、ぷつりと音 を立てて切れました。
結末 ・・・短く垂れているばかりでございます。
終わり ・・・昼に近くなったのでございましょう。
(1)構成について
この作品は、三つの場面に分かれている。一つ目はお釈迦様が極楽から地獄の様子をみているところ。二 つ目は地獄にいる犍陀多の様子。三つ目は再びお釈迦様の様子である。当然第二場面が中心になっている。 極楽と地獄を対比的に描きつつ、事件の前後で極楽の変わらない様子を描くことで、犍陀多の行いがちっぽ けなものであることが強調されるような構成になっている。
(2)発端について
発端の候補として以下のことが考えられる。
①ある日のことでございます。・・・つまり冒頭=発端である。「ある日」という特別な
日の出来事なので、特別な事件の予感がする。しかし、お釈迦様がいつもと変わらず
にぶらぶら歩いているだけであり、事件らしい事件は起こっていない。
②するとその地獄の底に・・・ここは犍陀多が登場する場面であり、お釈迦様と犍陀多
との「出会い」の場面である。過去に犍陀多が蜘蛛を助けたというエピソードの説明
があるばかりであり、事件らしい事件は起こっていない。しかし、お釈迦様が蜘蛛の
糸を下ろすという「事件」をしかけたと考えるなら、ここが事件の始まりと言える。
③こちらは地獄の底の地の池で、・・・ここは第二場面の始まりである。そういう意味で
場面が変わるところなので、発端といえなくもない。しかし、お釈迦様にとっては、すでに事件をしかけ ており、ただ犍陀多が、蜘蛛の糸にまだ気づいていないだけのことである。
④ところがある時のことでございます。・・・ここから犍陀多が蜘蛛の糸を見つけて、そ
れを上っていくところである。そういう意味では事件らしい場面である。冒頭の「ある日」より「ある 時」の方がより詳しく描写されており、時の密度も濃くなっている。事件が急激に展開していくことがわ かる場面なので、第二場面だけを見れば、発端だといえなくもない。しかし、事件をお釈迦様のしかけだ と読むと、すでに事件は始まっているととらえられる。
このように考えて、発端は②だと考えた。
授業では、この小説における事件とは何かを考えさせるなかで、お釈迦様が事件を創りあげていることに気づ かせたい。この事件は犍陀多が引き起こした事件だととらえると発端は④なのかもしれない。しかし、この小 説の主人公は誰なのかと考えてみたところ、どうも犍陀多がお釈迦様の手の内に乗って踊らされているような 感じであり、主人公はお釈迦様だととらえられた。
地獄に落ちた人間が反省したかどうかをお釈迦様が極限状態に追い込んで試したことが事件だと考えた。最後 に悲しい顔をするのは、地獄に落ちた人間は改心が困難だとお釈迦様が悟ったのではないか。
(3)クライマックスについて
クライマックスの候補として以下のことが考えられる。
①そこで犍陀多は大きな声を出して、「こら罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。おま
えたちはいったい誰に聞いて、上ってきた。下りろ。下りろ。」とわめきました。
ここは、犍陀多が自分のエゴのために他の罪人にわめくところである。物語の中で犍
陀多の変化がもっともよく表れているところである。会話でもあり、緊張感が高まっている。
②今までなんともなかった蜘蛛の糸が、急に犍陀多のぶら下がっている所から、ぷつりと
音を立てて切れました。
ここは、①に比べると描写的でなく説明調である。しかし糸が切れるという一番わか
りやすい瞬間である。クライマックスは事件が確定したところととらえるなら、お釈迦様の仕掛けた事件 が、 糸が切れることで確定するので、②がクライマックスだと言えるだろう。また、糸が切れるという出 来事は、蜘蛛の糸という題名ともつながっており、主題がとらえやすいところである。
③お釈迦様は極楽の蓮池の縁に立って、・・・またぶらぶらお歩きになり始めました。
ここは、お釈迦様が犍陀多に悲しそうな顔をする場面であり、主題が表れているとこ
ろである。①に比べて事件性はなく緊張感がないが、お釈迦様を主人公と考えた場合に
は、ここでお釈迦様の「悲しそうなお顔」が見えるところであり、お釈迦様の変化がわ
かるところでもある。しかし、糸を切ったことがお釈迦様の意志=判決だととらえれば、その時点で事件は 確定しており、③の場面は終結部ととらえられる。
クライマックスの読みとりを通して、この小説の主人公は犍陀多ではなく、お釈迦様ではないかと読み取っ た。犍陀多を主人公として、そのエゴイズムに焦点をあてすぎると、道徳教材のようになってしまいがちな ので、そこは慎重に扱いたい。
また、この小説の事件とは何かを探ってみたい。犍陀多の視点で見ると、蜘蛛の糸にぶら下がっていたら、 下に罪人たちがたくさんぶら下がっていたので、「下りろ。」とわめいた事件になる。しかし、お釈迦様の 視点で読み直すと、はじめから罪人が改心しているのかどうかを試す物語と読める。蜘蛛の糸が切れる瞬間 にはこう書いてある。
「そのとたんでございます。今までなんともなかった蜘蛛の糸が・・・」そのとたんとはお釈迦様が犍陀多 のわめき声を聞いてすぐという意味である。そこにお釈迦様の意図が感じられる。犍陀多の運命は自分の助 けた蜘蛛の糸にゆだねられていた。その裁きをお釈迦様が演出したのである。この物語の最初と最後の極楽 の場面は、時が朝から昼に移ったこと以外何も変化がない。日常的なできごとなのである。お釈迦様にとっ ては、たいした事件ではないのである。授業ではそんな視点の違いにも目を向けさせたい。
◆導入部の形象よみ
<時>
① ある日のこと=いつかはわからない、いつであってもよい。しかしある日ある時の特別なできごと。
② 咲いている蓮の花=蓮の花が咲くのは夏であるが、そもそも極楽に季節はあるのか?
③ 極楽はちょうど朝なのでございましょう=ちょうど朝とあるが、終結部の「もう昼に近く」に対応する。朝 はお釈迦様の散歩の時間、蓮の花が咲く時間を表すと見られるが、極楽に時間の概念はあるのだろうか。 「朝なのでございましょう」という表現は、語り手にとっては、本当に朝なのかどうかわからないような、 ぼんやりとした時間の感覚なのではないだろうか。はっきりと朝と昼の区別がつかないような明るさなので はないか。
<場>
① 極楽の蓮池の縁=極楽すなわち天国にある蓮が植えられている池のまわりという意味。 この物語の舞台の 一つが極楽という楽園であることを示している。この対極にあるのが地獄。
② 池の中に咲いている蓮の花=蓮の葉は直径50センチくらいになる。花は直径20くらいである。それらの ものがある池であり、お釈迦様が散歩するくらいの池である。相当な大きさの池であるように思われる。
③ みんな玉のように真っ白で=蓮の花は紅色のものもあるが、極楽の池の蓮はすべて白である。しかも玉のよ うにという比喩で宝石(つまりこの場合は真珠)のような白さだという。極楽の清らかさが表されている。
④ そのまん中にある金色のずい=ずいとはおしべとめしべのことである。
⑤ なんともいえないよい匂い=この極楽という場の心地よさ快適さが嗅覚からも感じられる。
⑥ 絶え間なく辺りへあふれて=一年中とぎれることがない。季節問わず。池の周りのみならず、そこらじゅう にあふれている。
⑦ 水の面を覆っている蓮の葉の間から=蓮の葉は池を覆うように密集している。その間であるから、それほど 大きな面積ではない。すき間から。
⑧ ふと下の様子を=下の様子、つまり地獄の様子が池の底の方に見えるようになっている。
⑨ この極楽の蓮池の下はちょうど地獄の底=極楽と地獄の位置関係がわかる。極楽の池の下が地獄というの は、ちょっと考えて池の水はどうなるの?と疑問のわくところであるが、そもそも極楽と地獄という設定が 人の考えの及ばぬ不思議なところである。
⑩ 水晶のような水を透き通して=水が透明に澄んでいる様子が水晶にたとえられている。
⑪ 三途の河=死後、七日目に渡るとされる。冥土の途中にあるとされる三つの瀬。それぞれ生前の業に対して 流れの速さが違う。普通「三途の川」か。河は直角にまわる黄河。川は低いところをうがつようにして通 る。江はまっすぐ大陸をつらぬく長江。三途の河は直角に曲がっている?
⑫ 針の山の景色=地獄にある多くの針が突き立った山。これを景色と呼ぶところに、釈迦ののんきさが伺え る。
⑬ ちょうどのぞき眼鏡を見るように=のぞき眼鏡(双眼鏡?)の比喩。
⑭ はっきりと見える=池の水を通して見ているのにはっきり見えるとは、その透明度がよくわかる。
<人物>
① お釈迦様=仏教の開祖。釈迦牟尼。苦学苦行し悟りを得た。この物語の主人公。
② 独りで=お釈迦様は独りで行動している。家族・友達・家来などの存在が見えない。
③ ぶらぶら=退屈しのぎのように無目的で歩いている。いつもいつも暇?
④ お歩きになっていらっしゃいました=敬語が使われており、お釈迦様に対しての敬意が語り手にある。
⑤ やがてお釈迦様は=散歩を終えて、と読める。
⑥ その池の縁におたたずみになって=たたずむとは、しばらくその場所に立ったまま動かないでいる様子であ る。座り込んでいないのであるから、散歩に疲れたわけではない。何かに気づいたのであるか。
⑦ ふと下の様子を=ふと、というのであるから、思い立って、偶然にも。何気なくという感じで下を眺めてみ た。しかし、蓮の葉と葉のせまい間を見るのであるから、ある程度意図的な感じで見ている。
⑧ ご覧になりました=主語はお釈迦様である。見ました、より敬意を表している。
<事件設定>
① でございます=大変丁寧な言い方。通常の敬体よりも丁寧なのは、後から登場するお釈迦様という偉い人物 の行動描写に関わっている。
② お釈迦様は=釈迦が極楽にいて、のんきに散歩しながら地獄の様子を上から眺めている。
③ はっきりと見える=お釈迦様にはなんでもお見通しである。この後の登場人物の動きも同様である。
◆展開部の形象よみ
①(事件+人物)するとその地獄の底に、犍陀多という男が一人、他の罪人と一緒にうごめいている姿が、お目 にとまりました。
→ 地獄のさらに「底」である。お釈迦さまは「犍陀多」という名前を知っていたのみならず、無数の他の罪 人の中から見分けている。「うごめいている」というのは十分身動きがとれない状況の中でもがいている 姿。
②(人物)この犍陀多という男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事をはたらいた大どろぼうでご ざいますが、それでもたった一つ、善いことをいたした覚えがございます。
→ 犍陀多が人殺し・放火・泥棒など悪人であることが説明されるが、「たった一つ、善いことをいたした」 という。その「善いこと」がきっかけとなって事件は展開していく。ところで「善いことをいたした覚 え」とは誰の覚えなのか。彼自身ではなく、お釈迦様であろう。後から「(お釈迦様が)お思い出しにな りました」という場面がある。
③(人物)と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛が一匹、道端をはっていくの が見えました。そこで犍陀多は早速足を上げて、踏み殺そうといたしましたが、「いや、いや、これも小さ いながら、命のあるものにちがいない。その命をむやみにとるということは、いくらなんでもかわいそうだ 。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
→「深い林」という言葉に違和感がある。深いときたら森ではないか。それほどうっそうとした感じではない のか。「小さな蜘蛛」に気をとめる余裕あり。踏み殺そうとしたのを助けてやったことは、はたして「善 いこと」であろうか。いずれにしても「」の中はしっかりと読ませたい。お釈迦様の思いとも重なる部分 である、
④(人物)お釈迦様は地獄の様子をご覧になりながら、この犍陀多には蜘蛛を助けたことがあるのをお思い出し になりました。そうしてそれだけの善いことをした報いには、できるなら、この男を地獄から救い出してや ろうとお考えになりました。
→ お釈迦様は地獄から救い出そうと考えたが、それは蜘蛛と同じく命を救うということを意味している。地 獄から救い出す値打ちのある行動であるということ。他の人が気づかないような小さな命を救った行為の 値打ち。
⑤(事件)幸い、そばを見ますと、翡翠のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸を かけております。お釈迦様はその蜘蛛の糸をそっとお手にお取りになって、玉のような白蓮の間から、はる か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれをお下ろしなさいました。
→「幸い」とあるのは偶然という意味である。たまたま目に入っただけで、意図的ではない。「翡翠」とはカ ワセミの羽の青々とした色のこと。(翡は雄、翠は雌のカワセミ)この場合は蓮の葉の色をたとえている。 「白蓮」とは白いハスの花。蜘蛛の糸が極楽から「はるか下」の地獄に届くくらい長いものである。蜘蛛の 命を助けた男を蜘蛛の糸で助けることの意味は。
⑥(人物)こちらは地獄の底の血の池で、他の罪人と一緒に、浮いたり沈んだりしていた犍陀多でございます。 なにしろどちらを見ても、真っ暗で、たまにその暗闇からぼんやり浮き上がっているものがあると思います と、それは恐ろしい針の山の針が光るのでございますから、その心細さといったらございません。
→ 発端で「するとその地獄の底に、犍陀多という男が一人、他の罪人と一緒にうごめいている姿が、お目に とまりました。」とあった。うごめいている様子がさらにリアルに描写されている。ここでは犍陀多の視 点に移っていることがわかる。
⑦ (人物+文体)そのうえ辺りは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞こえるものといっては、ただ 罪人がつくかすかなため息ばかりでございます。これはここへ落ちてくるほどの人間は、もうさまざまな地 獄の責め苦に疲れはてて、泣き声を出す力さえなくなっているのでございましょう。ですからさすが大どろ ぼうの犍陀多も、やはり血の池の血にむせびながら、まるで死にかかった蛙のように、ただもがいてばかり おりました。
→「墓の中のように」という静かな様子の比喩や、「泣き声を出す力さえなくなっている」ほどの疲労である ことが説明されている。「まるで死にかかった蛙」という比喩は、ジャンプできずにぴたぴたと地面を はっている様子が想像できる。
⑧ (事件+文体)ところがある時のことでございます。なにげなく犍陀多が頭を上げて、血の池の空を眺めま すと、そのひっそりとした闇の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れ るように、一筋細く光りながら、するすると自分の上へ垂れてまいるではございませんか。
→「まるで人目にかかるのを恐れるように」ということは、つまり犍陀多にしか見つけられないようにという こと。それを犍陀多は「自分の上へ垂れてまいる」と受け取っている。
⑨ (人物)犍陀多はこれを見ると、思わず手を打って喜びました。この糸にすがりついて、どこまでも上って いけば、きっと地獄から抜け出せるのに相違ございません。いや、うまくいくと、極楽へ入ることさえも できましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられることもなくなれば、血の池に沈められることも あるはずはございません。
→「思わず手を打って喜びました」から喜びの大きさがわかる。地獄から抜け出し、極楽へ入ることができる と考えている。虫が良すぎる。普通なら細い蜘蛛の糸にぶらさがって自分の体重が支えられるなどとは思わ ないだろう。彼がそう思った背景としては、地獄から抜け出したいという思いで冷静な判断ができかったの ではない。
⑩ (人物)こう思いましたから犍陀多は、早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上 へ上へとたぐり上り始めました。もとより大どろぼうのことでございますから、こういうことには昔から、 慣れきっているのでございます。
→「両手でしっかりと」から絶対に落ちないぞという強い意志が感じられる。「たぐり上り」からはしかりと 糸をつかんで離さないぞという気持ちで行動している様子がわかる。
⑪(事件+人物)しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくら焦ってみたところで、容易 に上へは出られません。ややしばらく上るうちに、とうとう犍陀多もくたびれて、もう一たぐりも上の方へ は上れなくなってしまいました。そこで仕方がございませんから、まず一休み休むつもりで、糸の中途にぶ ら下がりながら、はるかに目の下を見下ろしました。
→ 地獄と極楽の間の何万里というのは、1里=4Kmとしても4万Km以上。とても上りきれるものではな い。「はるかに目の下を見下ろしました」ということは、かなり地獄から上の方に脱出したということ。 一休みしたくなる気持ちもわかる。それにしてもかすかな可能性である。悪いことをすると助からないよ ということをお釈迦様は伝えているのか。
展開部では、お釈迦様が蜘蛛の糸を極楽から地獄にたらして、それに犍陀多がつかまって、上っていくところが描かれている。蜘蛛の糸の持つ意味と地獄の悲惨さとそこから抜け出そうとする者の心情が描かれていく。
◆山場の部の主題よみ
①(事件+人物)すると、一生懸命に上ったかいがあって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう闇の底 にいつの間にか隠れております。
→「さっき」まで自分がいた「血の池」が「闇の底」に「いつの間にか隠れ」るくらい、短時間のこと。一生 懸命、必死に上った犍陀多の様子がうかがえる。見えなくなってしまうくらいの距離が離れているとも言え る。
②(事件+人物)それからあのぼんやり光っている恐ろしい針の山も、足の下になってしまいました。
→「あのぼんやり光っている恐ろしい針の山」とあるが、地獄にいたときに「恐ろしい針の山の針が光る」と なっていたが、今では「ぼんやり」光っているのである。恐ろしさが幾分なくなってきたのではないか。遠 いところまで来たので、地獄から距離が離れるほどに「ぼんやり」してくる。
③(事件+人物)このぶんで上っていけば、地獄から抜け出すのも、存外わけがないかもしれません。
→ まだ地獄から抜け出してはいない。しかし、「希望」が出てきた。「かもしれません」なので、はっきり と確信があるわけではない。
④(人物)犍陀多は両手を蜘蛛の糸に絡みながら、ここへ来てから何年にも出したことのない声で、「しめた。 しめた。」と笑いました。
→ 両手でしっかりと蜘蛛の糸を絡めて落ちないように。「ここへ来てから何年にも」ということは地獄に来 てすでに何年もたっている。何年も血の池の中で絶望を味わっていた。また、「両手でしっかりとつかみ ながら」が「両手を蜘蛛の糸に絡みながら」に変化している。「何年にも出したことのない声」とはうれ しい声。「しめた。しめた。」と二回繰り返すのは、地獄から抜け出せることを確信したから。
⑤(事件+人物+文体)ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数かぎりもない罪人たちが、自 分の上った後をつけて、まるで蟻の行列のように、やはり上へ上へ一心によじ上ってくるではございません か。
→ 罪人たちを「蟻の行列のよう」とたとえている。たくさんの人数が蟻のように小さく下の方に見えてい た。「一心に」というのは、罪人たちも自分同様「一生懸命上って」きていることを表している。ここで 自分も罪人と同じ気持ちだと共感するのでなく、罪人たちを自分よりも下の立場に見ているところに問題 がある。このあとの悲劇につながっている。
⑥(人物+文体)犍陀多はこれを見ると、驚いたのと恐ろしいのとで、しばらくはただ、大きな口を開いたま ま、目ばかり動かしておりました。
→ 「これ」とは蜘蛛の糸を上ってくる罪人たちのこと。「驚いたのと恐ろしいのとで」「大きな口を開いた まま、目ばかり動かして」いた理由を述べているが、「驚いた」のはまさか自分の蜘蛛の糸を他人(罪 人)が上ってくるとは考えていなかったから。つまり自己中心的だった。「恐ろしいの」は罪人たちの重 みで蜘蛛の糸が切れて、自分まで地獄に落ちてしまうかもしれないから。いずれにしても自分のことしか 考えていない。両手両足がふさがっており、口も大きく開けているわけだから、動かせるのは目だけだっ た。
⑦(人物+文体)自分一人でさえ切れそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに堪えるこ とができましょう。
→ 反語表現。そんなに細い蜘蛛の糸に自分がぶらさがっていることすら切れるかもしれない。重みに堪えら れないだろう。このままでは糸が切れてしまうことを確信した。「あれだけの人数」とはどの程度なの か。読者にはわからないが、あとから「何百となく何千となく」とあるから、相当の数である。
⑧(人物)もし万一途中で切れたといたしましたら、せっかくここへまで上ってきたこの肝腎な自分までも、も との地獄へ逆落としに落ちてしまわなければなりません。
→ 途中で切れるということは、犍陀多のぶらさがっている下の方で切れるというより、彼もいっしょに落ち てしまうように思っている。「せっかくここへまで上ってきた」という思いがある。「この肝腎な自分ま でも」ということは他の罪人たちと自分とは違う存在なのだという意識がある。やはり自分は何か特別な 存在であると思っている。自分には地獄から脱出する資格があるが、罪人たちにはないとでも思っている のだろうか。
⑨(人物+事件+文体)そんなことがあったら、大変でございます。が、そういううちにも、罪人たちは何百と なく何千となく、真っ暗な血の池の底から、うようよとはい上がって、細く光っている蜘蛛の糸を、一列に なりながら、せっせと上ってまいります。
→ 「そんなこと」とは自分が地獄に落ちること。「蟻の行列」のような「罪人たち」は「何百となく何千と なく」やってきた。果たしてその時点で蜘蛛の糸は切れていてもおかしくないのに、切れていないことの 方が不思議。「うようよと」「せっせと」など罪人たちの様子が擬態語で描かれている。一列で何百何千 とつながるというのは、相当な距離が進んでいる。1人1m分だとしても何Kmも上ったことになる。
⑩(事件)今のうちにどうかしなければ、糸はまん中から二つに切れて、落ちてしまうのにちがいありません。
→ 「糸はまん中から二つに切れて」とあるが、糸のまん中とはどこ?「落ちてしまう」の主語は書かれてい ないが、もちろん犍陀多である。「ちがいありません」と強い言葉で述べている。
⑪(人物+事件)そこで犍陀多は大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。おまえ たちはいったい誰に聞いて、上ってきた。下りろ。下りろ。」とわめきました。
→ 「罪人ども」という言い方に自分自身も罪人であることを棚に上げておいて、優越感を持っている。「こ の蜘蛛の糸は俺のものだぞ」と言い切る自信はどこからくるのか。自分が落ちてしまう恐怖から、わけも わからず、わめきちらしている。
⑫(事件+文体)そのとたんでございます。今までなんともなかった蜘蛛の糸が、急に犍陀多のぶら下がってい る所から、ぷつりと音を立てて切れました。
→ クライマックスである。今までなんともなかったわけだから、罪人たちの重さで切れたわけではない。犍 陀多の一言がきっかけで切れたことはあきらかである。そうでなければ、犍陀多のぶら下がっている所か らちょうど切れることが説明できない。「ぷつりと音を立てて」切れることは一瞬で切れたということ。 少しずつでなく、意図的に切られた。お釈迦様の意図があることは明白である。
⑬(人物+事件+文体)ですから犍陀多もたまりません。あっというまもなく風を切って、こまのようにくるく る回りながら、みるみるうちに闇の底へ、真っ逆さまに落ちてしまいました。
→ 「あっというまもなく」それだけ短い時間で、「こまのようにくるくる回りながら」落ちていった。蜘蛛 の糸が切れて、落ちて死んでしまった場面は描かれていない。おそらく地獄での生活が待っているのだろ う。
⑭(事件+文体)あとにはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く 垂れているばかりでございます。
→ 「短く垂れ」ているということは途中で切れたことを示している。きらきらと光る糸と「月も星もない」 真っ暗な空とが対比されて、犍陀多の運命を暗示している。
山場の部では、犍陀多が自分のことだけを考えてしまったがために、自分も不利益を被った
ことが描かれている。それがテーマにもなっている。
◆終結の部の主題よみ
①(事件+人物)お釈迦様は極楽の蓮池の縁に立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やが て犍陀多が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうなお顔をなさりながら、またぶらぶらお 歩きになり始めました。
→ この場面は導入部の次の部分と対応している。「お釈迦様は極楽の蓮池の縁を、独りでぶらぶらお歩きに なっていらっしゃいました。」
「この一部始終」とは犍陀多の様子である。蜘蛛の糸が切れて闇の底に真っ逆さまに落ちてしまった後、「血 の池の底へ石のように沈んで」いく様子も見ている。「石のように」というのはいかにも重たくて生きていな い物体として扱われている。池の底に石が沈む際には、もう浮かび上がってこられない。おしまいであること を表している。そこでお釈迦様は「悲しそうなお顔」をしている。お釈迦様の望むような結果、すなわち犍陀 多だけが地獄から救い出される結果にならなかったことを意味している。しかし、それと同時に「またぶらぶ らお歩きになり始めました」とある。それほど深刻に受け止めてはいないようである。
②(事件+人物)自分ばかり地獄から抜け出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰を受 けて、もとの地獄へ落ちてしまったのが、お釈迦様のお目から見ると、あさましくおぼしめされたのでござい ましょう。
→ 「自分ばかり」という自己中心的な行動に対する非難と、「無慈悲な心」すなわち思いやりの気持ちがな いことへの非難がある。「その心相当な罰」として「もとの地獄」に「落ちてしまった」のである。これ は「落とされた」あるいは「落としてやった」と書かれていない。お釈迦様の意図というより、犍陀多の選択として、地獄に落ちる方を選んだのである。「無慈悲」というのは、他の罪人たちへの思いやりの気持ちであろうから、「みんなで助かる道」を選択しなかったことへの報いともとれる。お釈迦様は犍陀多が「あさましく」思われたようである。いやしく、情けない人物として見ているのである。
③( 事件)しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんなことには頓着いたしません。
→「極楽の蓮池の蓮」は、そんなお釈迦様の気持ちなど気にしない。つまり、自然の時のながれは、犍陀多の 行いなどちっぽけなものであり、無関係に過ぎていくものである。
④(事件+人物)その玉のような白い花は、お釈迦様のおみ足のまわりに、ゆらゆらうてなを動かして、そのま ん中にある金色のずいからは、なんともいえないよい匂いが、絶え間なく辺りへあふれております。
→ 「その玉のような白い花」というのは、導入部の「池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のように真っ 白で、そのまん中にある金色のずいからは、なんともいえないよい匂いが、絶え間なく辺りへあふれており ます。」の部分に対応している。つまり、事件が起きる前後で何も変わっていないのである。「平和」な極 楽はなんの変化もないことを表している。「ゆらゆらうてなを動かして」とあるが、「うてな」とは台のこ となので、蓮の花びらの部分をさしている。「蓮台(れんだい)」という言葉もある。
⑤( 事件)極楽ももう昼に近くなったのでございましょう。
→導入部の「極楽はちょうど朝なのでございましょう。」に対応している。つまりこのお話は、朝から昼に近 くなったころの話である。ほんの数時間の短い時間のできごとである。極楽や地獄の永遠の時間の流れにし てみれば、ほんの一瞬のできごとである。
この小説の主題として考えられること
○よい行い(蜘蛛を助ける)にはよい結果、悪い行い(盗み)には悪い結果が待っているも
のである。
○自分一人の利益だけを考えてはならない。
○しょせん人間は運命(お釈迦様の意志)には逆らえないちっぽけな存在である。
○人間には不可能とわかっていても挑戦すべきときがある。
○人間は自分勝手な生き物である。その醜さを受け入れて生きなければならない。
などである。「蜘蛛の糸」はそんな人間の心を試す道具である。蜘蛛の糸に試された犍陀多
は、お釈迦様の「試験」に合格できなかった。お釈迦様ははたして、本当に犍陀多が他の
罪人たちをも救うと考えていたのだろうか。ひょっとしたら初めから結果がわかっていた
お釈迦様の「娯楽」に過ぎなかったのではないのだろうか。授業では、お釈迦様の立場か
ら犍陀多をどう見ていたのか、犍陀多から見て蜘蛛の糸のもつ意味は何だったのかと考え
させたい。お釈迦様は犍陀多が蜘蛛を助けたことがあるので、生き物の生命を大切にする
人物としてとらえたいと考えていた。しかしそれはあくまでお釈迦様の願いであり、現実
は違っていた。犍陀多も他の罪人たちもひょっとしたら人間はみな自分勝手な生き物であ
る。自分の生命がかかっているときには、他人の生命など考えないものである。そのこと
をお釈迦様だって知っていただろう。それにも関わらず、彼を試したのである。意地悪と
も受け止められる行為である。それに応えて犍陀多は必死で蜘蛛の糸をたどって登ってい
く。犍陀多にとっては蜘蛛の糸は「希望」である。地獄から助かるにはそれしかない。糸
が切れることなど考えもしない。他人を蹴落としてでも、自分は助かりたい。そんな状況
になった場合、理想は違うと知りながらも、人間の弱点として、理解できる。生徒にも問
いかけてみたい。自分が犍陀多ならば、同じように「この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。」と言
っただろうか。また、そのことは必ずしも悪いと言い切れないのではないか。そういう複
雑な人間の心理をとらえさせたい。
プロフィール
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