新学習指導要領国語科に見る人間観・教育観(下)

4.「伝統文化の重視」から見えてくるもの

 旧学習指導要領の「指導計画の作成と各学年にわたる内容の取り扱い」の「教材」の項には「我が国の文化と伝統に対する理解と愛情を育てるのに役立つこと」とあった。新指導要領では、「文化と伝統」が「伝統と文化」へと語順が逆転している。伝統の重視である。しかし、伝統は文化の下位概念である。広い文化概念の一つに伝統文化があるのであって、文化のすべてが伝統文化ではない。これをわざわざ逆転させたのは、「改正」教育基本法第2条5項「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」という文言である。こうして、伝統文化を重視する復古主義の国語教育を正当化したのである。
 また、新指導要領の「改善の具体的事項」(小・中学校)では、「言語文化としての古典に親しむ態度を育成する指導については、易しい古文や漢詩・漢文について音読や暗唱を重視する」として、小学校段階から古文や漢詩文の音読や暗唱を義務づけることになった。音読や朗読の教育的効果を否定するものではないが、これも「伝統文化の重視」につながる補完である。
 たとえば、東京世田谷区で行われている教科「日本語」特区では、この授業に各学年34~35時間が配当されている。小学1年で五言絶句の「胡隠君を尋ぬ」(高啓)が教材になっている。

 水を渡り 復た水を渡り
 花を看  復た花を看る
 春風   江上の路
 覚えず  君が家に到る 
 
 教師が情景を5分間説明するだけで、あとはひたすら音読する授業である。授業展開は区教委が立案したとおりに行われる。江戸時代の素読さながらではないか。
 全国学力テスト小学A問題に「寿」を辞書で調べる出題がある。文科省の分析概要によれば、正答率は81.4%で、「読み方も部首も分からない漢字を調べるとき、索引の中から総画索引を利用すればよいことを相当数の児童が理解している」と分析されている。しかし、「寿」は常用漢字である。新指導要領でも、常用漢字は中学三年でその大体が読めればよいとされている。なぜ、小学生にこれほど無理な出題をするのか。「寿」を含む造語として思い浮かぶのは寿命・長寿ぐらいのものだろう。「寿司」の看板を見ることもあるだろうが、これは当て字である。正しくは鮨、鮓である。その他の造語としては、喜寿・米寿・白寿などが常識の範囲だろう。
「寿」の元の漢字は「壽」である。「壽」は、老人を示す会意兼形声文字で、部首「士」の下の部分は「長く曲がって続く田畑の中のあぜ道をあらわし、長い意を含む」とされ、老人の長命を意味する漢字である。(藤堂明保編『学研漢和大事典』〈学習研究社〉)「寿」は祝い事などの伝統的な文化に関連する漢字であり、「伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項」に沿って出題されたものと考えても間違いなさそうである。伝統文化を尊重することと、それを現代の子どもたちにどう伝えるかは別の要素を含んでいるのであって、教師の実践と工夫によってその質を高めていくべき問題だろう。

5.書かれていない問題点

 国語科は、日本語の習得と交流を通して子どもたちの思考や認識力を高め、知識を豊かにする教科であり、子どもたちのあらゆる学習の土台となる総合的な性格をもっている。国語科の教科内容は、豊かな語彙と文法を学び、文学作品や説明的文章を読む力をつけ、文章を書く力を育てることにあり、話し合いや討論によって多様な考え方やクリティカルなリテラシーを身につけていく教科である。
『教育課程改革試案』(日本教職員組合中央教育課程検討委員会報告1976年一ツ橋書房)には、すでに国語科教育の課題として、次の3点が提起されていた。
① 国語科では、祖国の言語である日本語についての科学的・体系的な知識を確実にあたえなければならない。
② 国語科では、言語活動の教育を、言語を手段とする感性的・理性的な活動、思考と情動の活動、世界の事物の認識とその伝達、表現と理解、創造と鑑賞のためのしごとの指導として位置づけ、すべての子どもにこれらの能力がひとしく保障されるようにしなければならない。
③ 国語科を日本語そのものについての指導、日本語をもちいてする言語活動の指導および文学教育をふくむ教科としてとらえ、これを学校教育上基礎的な教科とし、学校教育の各階梯に応じて、それぞれの指導内容が設定され、それにふさわしい教育方法が採用されなければならない。なかでも、人類と民族の生きた生活にかかわる「人間の学」としての文学の教育は、どの段階でも重視し、これを低俗な道徳教育や性急な政治教育に落としこんではならない。
 ここには、今日の学習指導要領でも触れていないか、ないしは軽視されている幾つかの重要な指摘がある。
 第1は、「日本語についての科学的・体系的な知識を確実にあたえる」ことである。検定教科書には、雑多な教材が脈絡なく並べられていることが多く、科学的・体系的な日本語の習得になり得ていないという問題がある。
 第2は、日本語によって思考し、認識するという言語の性格が学習指導要領にはきちんと位置づけられていないという指摘である。
 第3は、国語科の教科内容を明らかにし、有効な指導方法を確立しなければならないという主張である。
 第4は、文学教育を国語科の中に位置づける必要があるという提起である。この提起については異論もある。しかし、文学作品の読み方指導として一般化することは必要である。その際、教育基本法の「改定」にともなって、新たに「規範意識」が盛り込まれたことを考えると、文学作品を道徳的に扱うことが懸念される。そういう意味では新鮮な問題提起になっていると言わなければならない。
 さらに付け加えて言えば、話し合いや討論によって思考力や判断力を伸ばし、クリティカルなリテラシーを身につけることは、今日の複雑な現代社会を生きる子どもたちにとって必須の課題であるにもかかわらず、新指導要領にはこの観点が欠落していることである。

6.学習指導要領改訂の背景

 新学習指導要領は、三つの勢力によって演出された。一つは、文部官僚であり、二つは政治的な新保守主義である。
 官僚制は、国の政策を実行する機構である。文科省は、一方でPISA型読解力などの学力低下が問題となって、その対策を打ち出すことが必要とされていた。他方では、「改訂」教育基本法に基づいて、保守的な政治勢力から、いわゆる「規範意識」の定着を図ることが迫られていた。
 新学習指導要領は、「改正」された教育基本法に基づいて作成されたことを第一の特徴とする。この「改正」は、安倍内閣によって行われた。安倍内閣はもろくも崩壊したが、戦後政治でタブーとされていた改憲を公然と主張し、国会での議決を実行しようとした初めての内閣である。政治的な新保守主義が官僚機構と結びついて、教育再生会議などの主張する「道徳」教育の強化が色濃く打ち出されたのである。
 三つめは財界である。財界は、新自由主義に基づいて、望ましい教育のあり方として三つの主張を掲げてきた。
① 国際的な競争に打ち勝てる人材の育成(能力主義)
② 市場原理の導入(競争原理と成果主義)
③ 学校のスリム化(受益者負担に基づく公費の削減)
である。
 文科省がこれらの主張を雑多に受け入れたために、新学習指導要領はさらに教科内容の系統性と科学性を失い、過密な指導内容を盛り込むことになった。その内容は、単なる量的な過密さにとどまらず、国家主義と新保守主義および新自由主義の結合を伴った教育の新しい質的変化をもたらすものとなったのである。
 1946年(昭和21年)3月に第1次アメリカ教育使節団が来日し、その後を受けて文部省は新教育指針を発表した。指針は「民主的政体としての議会政治が確立されると政党の力が強くなり、教育が一方的にゆがめられるおそれがある。そういう場合には、教師は教員組合の団結の力を強めて、それに対抗していかなければならない。それは教師自身のためばかりでなく、教師の責任である」と述べた。「教員組合」を教師・子ども・父母国民と読みかえれば、今日の教育状況を打開すべき警鐘になっているのではないだろうか。