わたしの授業びらき

五十嵐 淳(新潟県新潟市立岩室中学校)

1、なぜ国語を学ぶのか(1)──文学作品は人生のテーマをつかむため──

 最初の国語の授業では、簡単な自己紹介のあと、まず「なぜ国語を勉強するのか」という話を始めます。私は「読み研」(「科学的『読み』の授業研究会)で学び実践してきた人間ですから、当然、話は「書く・話す・聞く」ではなく、「読む」に焦点を当てたものになります。文学作品と説明的文章に分けて、「読み」とは何か、何のために「読む」のか、ということについて話します。
 まず初めは、文学作品です。
 芥川龍之介の『トロッコ』から「二人とも若い男だった。一人はしまのシャツを着ており、もう1人は耳に巻きたばこをはさんでいた」という部分を紹介し、「さて、耳に巻きたばこをはさんでいた男は何を着ていたのだろう」と発問します。
(さて、みなさんはどう考えますか。私の読みは次のようなものです。一人目の若い男の特徴は「しまのシャツ」という服装で表されているのに、二人目の男の特徴は服装ではなく「耳の巻きたばこ」で表されています。なぜか。それは、服装より「耳の巻きたばこ」の方が目立っていたからではないでしょうか。つまり、二人目の男は、「しまのシャツ」ではなく、それによく似た服装、つまり無地の目立たないシャツを着ていたと思うのです。ちなみに、顔つきや体格や年格好でも区別していないということは、それらの点も似通っている、際立った違いのない二人ではなかったかと思います)。
 以上の読みを生徒とやりとりした後、こんなことを話します。
「文学作品の授業では、書いてあることから書いてないことを読む力を身につけていきます。これは昔から『行間を読む』とか『眼光紙背に徹す』と言われていることです。そういう深い読みの力によって、文学作品が秘めている、人生や社会に対する考え方(テーマ)を読みとっていきます。そして、そのことは最終的には、たった一回きりの自分自身の人生のテーマをつかむ力となるのです。その力を身につけるために、文学作品を勉強するのです。」

2、なぜ国語を学ぶのか(2)──説明的文章はウソを見抜く力をつけるため──

 次に、説明的文章に移って、こんな話をします。
「残念ながら、世の中はウソに満ちています。ウソを見抜く力がないと、ひどい場合には命や財産を失うことにもなりかねません。説明的文章は、そんなウソを見抜く力をつけるために学習するのです。ウソを見抜き、真実をとらえる力を身につけることは、値打ちのある生き方をするためにはどうしても必要なことなのです。では、ウソを見抜くとはどういうことか、試しにやってみましょう。」
 ということで、つづけて、簡単な三段論法の文章を二つ紹介し、生徒に考えさせます。 
A「犯人の血液型はB型だ。君の血液型もB型だ。だから、君が犯人だ。」
B「悪いことをする人は考えることのできない人だ。世の中に考えることのできない人はいない。だから、世の中に悪いことをする人はいない。」
(Aには大きな「飛躍」があります。同じ血液型の人間は無数にいるのですから、血液型と一致しているからといって犯人と断定することはできません。Bは「すり替え」を含んでいます。一文目の「考えることのできない」は善悪の判断ができないというような意味で使っていると思われるのに、二文目の「考えることのできない」は単純な思考さえできないという意味で使われています。だから、三文目のような明らかにおかしい結論が導き出されてくるのです)。

3、なぜ国語を学ぶのか(3)──みんなと共に賢くなる力をつけるため──

 最後に、なぜ集団で学習するのかということについて、「そのほうがより賢くなれるし、より楽しく勉強ができるからだ。」と話します。
 そしてすぐに、4人ひと班の学習班をつくり、班どうしで漢字ゲームを競わせます。「漢字ビンゴ」といったものですが、生徒はけっこう熱中します。
 このあと、「授業の約束」や教材や用具の話に移っていきますが、そのことについては今回は省略します。
 以上の「国語の授業びらき」は1時間では終わらないのがふつうで、私の場合、2時間ほどかけてやっています。

*本稿の骨子や教材の読みの多くは、「読み研」の前代表だった故大西忠治氏から学んだものです。

プロフィール

「読み」の授業研究会
「読み」の授業研究会(読み研)
「読み」の授業研究会は、子どもたちに深く豊かな国語の力を身につけさせるための方法を体系的に解明している国語科の研究会です。
2021年に設立35年を迎えました。