教材研究と授業をつなぐもの ─西原さんの疑問に関わって

読み研通信79号(2005.4)

 前号で立命館宇治中学高校の西原さんが、読み研方式について次のように述べている。

 例えば、説明的文章の「構造よみ」や「論理よみ」では必ずといっていいほど教師同士で意見が対立する。お互いが譲らず決着がつかない場面を見るにつけ、国語教師でさえ判然としない「構造」や「段落相互関係」を子どもたちに求めるのはいかがなものかと首を傾げてしまう。
 また、文学作品(小説)の「構造よみ」に関しても、「発端」「山場の始まり」「クライマックス」などが教師間でも一致しない場合がある。況や生徒間をやである。活発な意見交流ができるといえば聞こえはいいが、教師があらかじめ用意した答え(教材分析)に子どもたちは心から納得するだろうか。

 このような疑問は、西原さんだけのものではない。しばしば読み研に向けられる疑問でもあり、その意味では私たちがきちんと向き合っておかなくてはならない問題でもある。西原さんの疑問を糸口にして、教材研究のあり方と授業実践に関わって私の考えを述べてみたい。

1 教材研究から授業へ

 西原さんの疑問は、実はそれほど否定的に考える問題ではない。問題を整理し、教師がきちんと受け止めるならば、むしろ肯定的な要素ですらある。
 まずは教材研究と授業とをきちんと分けて考えることである。
「教師同士で意見が対立」したり「教師間でも一致しない場合」があるのは、教材研究のレベルでの問題であり、それがそのまま授業に流れ込むのではない。教師は、教材研究したことをそのまま授業化するのではない。教材研究の過程では、その教材の何を取り上げるのか、あるいは取り上げないのかが考えられなくてはならない。
 教師同士の意見の対立は、まさにそのような問題をより深めていく絶好の機会でもある。なぜ対立するのか、なぜ一致しないのかをそれぞれが考えることで、教材研究はより深みを増す。さらには、そのような教師同士での議論を生徒にさせることが可能かどうか、可能とすればどのように指導言をうてばよいのか、無理ならばどうするか……そういったことを考えていくのも教材研究なのである。

2 授業で何を教え、また教えないか

 教材研究を深める中で、授業で何を重点としていくのかが決まってくる。
 読み研では教材研究をかなり丁寧にやる。それだけに、教材研究したことをすべて授業の中で扱っているように思われがちである。しかし教材研究が100%生かされるような授業は、教師の一方的な説明や押しつけの授業にしかならない。教材研究とは、何を扱わないかが考えられていく過程でもある。氷山はその大半が海中に隠れて見えないように、教材研究も授業の表面に見えるのはその一部でしかない。見えない部分が大きければ大きいほど、授業として幅も生まれ、生徒の多様な反応に自在に応えることが可能となる。
 生徒が読み研方式にさほど習熟していない場合、あるいは生徒の討議の力が弱い場合などには、議論が混乱するような課題を授業に持ち込むべきではない。柱をめぐって教師間でも意見が分かれるような箇所を授業で取り上げてはならない。それはいたずらに生徒を混乱させ、国語というのは結局答えがはっきりと分からないものであるといった教科不信を生み出すことにしかならない。
 典型的なもの、答えが納得できるものから順次提示することで、考える筋道も分かっていくし、国語という教科への信頼も生まれてくる。

3 教師の読みを絶対化しない

「教師があらかじめ用意した答え(教材分析)に子どもたちは心から納得するだろうか」と西原さんは言うが、授業において教師はすべてにおいて生徒を納得させなくてはならないものなのだろうか。もちろん授業方法といった基本的なところでは、生徒の納得・理解や合意を求めることが必要である。しかし、教材を読み進めていく上で、微妙な読みとりの違いや意見の違いが生まれてくるのは当然のことである。西原さんの言うように教師同士ですら意見が一致しない問題も存在するのだ。もちろん教師は、生徒の納得が得られるような説明をすべきである。しかし、それでも納得が得られない場合、言いかえれば生徒が自らの考えにこだわる場合、そのこと自体を尊重してやることも必要なのである。 
 国語という教科では、答えが明確に一つに定まる場合もあれば、いくつかの答えに分かれていくこともある。教師は自らの読みを絶対化するのではなく、常にそれをも相対化していく目をもたなくてはならない。

4 教材研究に確信がもてるように

 生徒が納得しない場合もあると述べたが、それは教師の読みがいい加減であってもいいということではない。教師は教材研究を通して自らの読みを深め、自分だけの思い込みでない、より客観性のあるものにしていかなくてはならない。教師同士での意見の対立や相違は、自らの読みを再度検討し、確かめていく絶好の機会である。自らの読みの根拠を確かめ、相手の読みの弱さが見えることで確信は深まる。反対に、自らの読みの根拠が弱まり、相手の読みに欠陥が見いだせないとすれば、自分の読みがそれだけ脆弱であったことになる。
 実践的には、教師間でAとBと意見が対立する場合に、Aと考える教師はAで、Bと考える教師はBで授業することもありうる。ただ、そこで大事なことは教師が自説にしっかりと確信を持っていることである。Aであるか、Bであるか、そこに授業の最大のポイントがあるのではない。教える教師が自説にどれだけの根拠や確信を持っているか(単なる思い込みや執着でなく)、そして対案についても深い読みができているならばAで教えるかBで教えるかは、大きな問題にはならないと私は考える。授業の成否は、最高潮や柱の関係を単に決めることにあるのではなく、最高潮や柱の関係を考えることを通して、作品や文章をどれだけ深く読み込めるかにかかるのである。

5 生徒にどのような力をつけるのか

 読み研方式における構造よみであれ、論理読みであれ、どこかに明らかな正解が書かれているというものではない。また唯一絶対の正解を求めるために読むのでもない。発端や柱とそれ以外の関係といった指標をもとに文章を読み解いていくのであり、そのことを通じて文章を読む力を生徒につけていくところにねらいがある。
 教材をめぐって意見が対立するのも、「唯一絶対の正解」のない問題を議論しているからなのである。私たちは、生徒に自力で文章を読み抜く力を付けていくことを目指しているのである。授業は、生徒にどのような読みの力をつけることができたのかという点で評価されなくてはならない。そして教材研究にも、そのような観点を欠かしてはならないのである。