「構造よみ」再考
読み研通信82号(2006.1)
はじめに
読み研方式では、文学作品・説明的文章の第一読は構造よみをする。文学作品と説明的文章では異なっているが、文章にある型をあてて読もうとする点においては共通している。本論では、構造よみの意味について再考してみたい。
(本論で述べる考え方は、詩や説明的文章の構造よみにも通底するが、議論をややこしくしないため主として物語・小説の構造よみについて述べる。)
1 大西忠治の構造よみ
読み研の創立代表であり、読み研方式の創始者でもあった大西忠治は構造よみについて次のように述べている。
私は三読主義というこの古い方法を授業の基礎に据えてきた。……「通読」する──というこの読み方は、普通は、さっと読む、あらすじをつかむ、全体をおおまかにまとめて読む──こととして行われている。(注1)
大西は三読主義(通読・精読・味読)の通読をあらすじをつかむ段階とおさえる。その上で「あらすじ──筋とは、……事件そのものではなく、『事件の流れ』である」とし、以下のように述べる。
文学作品の「筋」をつかむこと、いわゆる〈あらすじ〉を把握させる読みとりとは、作品中の筋を構成する「事件」の流れのはじまり、つまり「発端」を読みとり、〈クライマックス〉を読みとり、筋を構成する「結末」を読みとれば、もっとも簡単に把握できるのである。(注2)
大西は、通読段階で〈あらすじ〉をつかませるのにはどのような方法が有効なのかという実践的な問題として構造よみを考えていた。
大西が読み研方式(正確には大西の提案が先で、その後に読み研は発足している)を提案した背景には、国語教育のあてどなさがあった。大西は「文学作品をどう読ませるか」(注3)の中で「文学作品の第一次の読みをどのようにはじめるか」に関わって次のように述べている。
「だいじなところ」とか、「核になることば」とか、「子どもが一番強く感動したところ」というふうな、はっきりしているようで、客観的にはしっかりした基準のない……そのよりどころのたよりなさ、あてどなさのようなものに、国語の教師たちが、疑いと反省を持ってくれること、そこからこそ国語教育は出発しなおさねば、国語教育を科学に近づけることはできない
大西の構造表は、教師と生徒が同じ基準の下に作品について議論することを可能にした。国語の授業のあてどなさからの脱出、「国語教育を科学に近づけること」、そこに大西の目指したものがあった。
一方で、大西の構造よみは構造表に当てはめて作品を読むという側面を強く持っていた。読み研初期の著作である「教材分析ノート「(民衆社)や「教材研究の定説化シリーズ」(明治図書)などをみると、発端の規定や指標を十項目前後にわたって示しているものがある。初期の構造よみが、発端の性格を明らかにすることに力を入れていたことが見てとれる。
また阿部昇も指摘しているように、大西はストーリーとプロットの違いを明確にしようとは考えなかった(注4)。〈あらすじ〉=事件の流れ=プロットとすることで、導入部や終結部は筋からは除外される。事件性に重きを置いており、結果的にはストーリー主義となってしまった。そのことで構造よみは事件の変化に重きを置くこととなり、それがどのように語られているかという点に目を向けることが弱くなってしまったのである。
2 大西以後の構造よみ
大西存命中から、構造よみについては次のような批判がしばしばなされてきた。構造よみに向いている作品もあれば、そうでない作品もある。一律に決まった形を当てはめていくことには無理があるのではないかというものである(この問題は後述する)。このような批判に、当時の構造よみの抱えていた弱さの一面を見てとることもできる。
読み研の広がりの中で、構造よみは問い直されていく。阿部昇は第9回夏の大会の基調提案の中で構造よみの意味を五点に整理している。
A…「導入部」「展開部」「山場の部」「終結部」といった構造がほぼ明らかになることで、作品それぞれの部分の「読みの方向性」が見えてくる。
B…「発端」「クライマックス」などが構造的に明らかになることで、どの言葉どの文にこそ注目すべきかという指標──つまり「線引き」の指標がより明確になる。
C…「二次形象」「三次形象」の「読み」の際に、主題に迫る「読み」がより容易になってくる。
D…作品構造が明らかになることで、作品全体の形象相互の仕掛け・レトリックなどが、より明確に見通せるようになる。
E…はじめに作品の大きな「事件の流れ」を俯瞰することで……国語が不得意な子どもたちにとっても、作品がより理解しやすくなる。
阿部は、この時点において主として構造よみを形象・主題よみと関連させてとらえようとしており、その関わりの中でその意味を明らかにしようとした。阿部の述べるように、構造よみは形象・主題よみとの関連でとらえることが大切である。それとともに、構造よみそれ自体の意味を問い直していくことも必要である。
3 構造よみで何を読むのか
文学作品における構造よみで、発端や最高潮の決定をめぐってはしばしば教師の間でも意見が対立する。そのような議論の中でしばしば出されるのが、発端や最高潮をどう規定するかという問題である。より詳細な、より厳密な規定を求めるのである。そうすればこのもめている議論に決着がつけられるというのである。確かに発端や最高潮の規定は、それをもとに教師と生徒が議論し合うのであり、それなりの厳密さは必要である。しかし、詳細で厳密な規定があれば、構造よみはわかりやすくなるのか。私は、発端や最高潮をより詳細に、厳密に規定していくことで、発端や最高潮の決定に際して起こる議論の混乱がなくなり、決定が容易になっていくこと(それほど単純ではないが)を必ずしもよいとは考えない。
構造よみにおいて発端や最高潮を決めることが最大の課題なのだろうか?もちろん初歩的な段階においては、授業において発端や最高潮を決めることが重要な意味をもつことはある。しかし構造よみが、発端や最高潮を決めることにねらいをおいてしまったらその本質を誤ることになるのではないか。
誤解を恐れずにいうならば、構造よみとは発端や最高潮を決めることではない。発端や最高潮という「ものさし」を用いて作品を読むことである。発端や最高潮の場所がどこかがわかることが問題なのではない。構造よみでもめたときに、形象をきちんと読みとった上で、構造を改めて決めようといったことが言われたりする。これなどは本末転倒のよい例なのだが、私たちは構造を決めるために読むのではない。発端や最高潮を考えることを通して、作品の何が読み取れたか、そこにこそ大事な問題があるのである。
4 「空中ブランコ乗りのキキ」を例に
昨年12月の九州読み研で「空中ブランコ乗りのキキ」(別役実)─三省堂中学1年─を教材として講座を持った。そこで、発端をめぐって意見が対立した。
A「なあ、キキ……。」……
B キキのいるサーカスが、ある港町のカーニバルにやって来た……
に大きく分かれたのである。
Aの意見は、団長がキキに四回宙返りを持ち出すところの初め。団長の言葉でキキが四回宙返りを意識するところから事件が始まると考えるのである。おばあさんとの出会いやピピの三回宙返りの成功は、四回宙返りに挑戦するための単なるきっかけに過ぎないというのである。
Bは、おばあさんと出会い、ピピの三回宙返りの成功を聞いてキキは四回宙返りに挑戦するようになったのだから、ここを発端だと主張する。
ここで大事なことは発端は自明なものとしてどこかに存在しているわけではないということだ。問題集の後ろにある解答のような「正解」はどこにもない。AかBかは、作品を読むことを通して決められるのであり、発端をめぐる議論は作品の読みをめぐる議論なのである。
「ある港町」のある「夜」のこと。場所と時間が限定される。ということは、これまでとは違う何かがそこで起こったということで、非日常の出来事の始まりと考えられる。それまでは具体的に時間や場所は限定されておらず、日常的なこととして語られている。
ここでの中心は、キキの四回宙返りへの挑戦と考えられる。これ以前にも四回宙返りの話は出てきているが、そこでのキキは四回宙返りのことを考えてはいるが、自分がやろうとは決めていないし、四回宙返りにそれほど前向きでもない。おばあさんと出会い、ピピの三回宙返りの話を聞き、キキは四回宙返りへの挑戦を決意する。その意味で四回宙返りにキキが挑戦しようとする始まりとしてはBがふさわしい。
Aが主張するように、団長との話の中で四回宙返りの話題がはじめて登場する。「もし、だれかがやり始めたら、おまえさんは四回宙返りをして見せればいいじゃないか。」という団長の言葉が、キキに四回宙返りを迫る初めであるようには見える。しかしキキは「四回宙返りを?できませんよ。練習してみましたが、三回半がやっとなんです……」と答える。キキは団長に言われる前から四回宙返りを意識し、練習もしているのである。
キキも初めから三回宙返りができたわけではない。父が失敗して死んだ三回宙返りは、キキにとっても成功するまでには多くの苦労とたくさんの練習を必要としたはずである。そんなにまでしてキキが三回宙返りを試みたのは、誰もまだ到達していない高みへ登ろうと考えたからであろう。その結果が三回宙返りの成功だった。キキにとって、三回宙返りが成功した時点で、四回宙返りがその視野に入ってくるのは当然のことだろう。
四回宙返りをいわれたからキキの中に葛藤が始まるのではない。それは物語の初めから、より高みを目指そうとするキキの生き方として存在しているのである。
発端の議論で大事なことは、AかBかを通してここに述べてきたようなことを読み取り、明らかにしていくことができるかどうかなのである。それは作品がどのように語られているかを読みとることであり、それが読み取れた後には、発端の決定はさほど大した問題ではなくなる。
構造よみの指導においては、教師はこのような視点をきちんと持って臨まなくてはならない。
5 構造表は唯一のものさしか
渋谷孝氏は「子供のいる駅」(黒井千次)「レキシントンの幽霊」(村上春樹)などの教材をあげながら次のように述べている。(注5)
これらの前衛的な資料や教材は、一つの形式となりかけている旧式の指導過程の方法論ではどうにもならない。…(読み研を含めいくつかの方式をあげ)…これらの指導方式は、過去の写実的な教養小説には、適応できるが未来には向かっていない。道具(指導過程)は固定したが、内容(教材)は流動的に変化している。
鶴田清司氏も詩の構造よみをめぐって次のように述べておられる。(注6)
詩の場合、「起承転結」で形象の変化を読むという方法が、理論としての普遍性・汎用性に欠けていること(起承転結で分析できる作品が限られていること)、……
渋谷氏や鶴田氏のいわれるように、構造表は絶対的なものさしではない。すべての作品においてそれが有効に機能するものでもない。しかしそのことは指導過程としては、どの作品にも構造表を適用していくことを否定するものではない。ある作品は構造よみをし、別の作品は違う読み方をするというような、作品によって読み方を変えていくことは、ともすれば読み方を教えずして、教師の読みを生徒に押しつけるだけのものとなってしまう。構造表を作品に適用していくことを通して、うまく適用できないものが出てきたときに、なぜうまく適用できないのかその意味を考えることで作品を読みとっていくことが大事なのではないか。
教師がこの作品は構造よみにはふさわしくないから、別の方法を用いようと考える。そしてその上で授業することは実践的にはあり得ることである。しかし、なぜ教師がそのような読みをしたのか、なぜこれまで用いた構造よみの方法を用いなかったのかを、生徒に考えさせる観点を教師が持たなければ、生徒に読みの力はついてはいかない。
ものさしは単に多様にたくさん持てばよいのではない。Aというものさしを適用してみてうまくいかない場合、Bというものさしを適用してみる。その場合、なぜAでうまくいかなくて、Bでうまくいくのか、AとBのものさしはどのような関わりにあるのか、そういったことを考えられる力も合わせてつけていくことが大切なのである。一つのものさしを唯一絶対のものとしてはいけない。だからといって、場合場合によってさまざまに異なる〈ものさし〉を生徒に与えていけばよいのでもない。一つの〈ものさし〉にとことんこだわることを通して、やがてはその〈ものさし〉を相対化する力を生徒につけていく、そこに読みの柔軟性も生まれるのである。そのためにも構造よみにおいては、決めることに目を向けるのではなく、構造表を当てはめることから何が見えてくるのかをきちんと見すえていくことが大事なのである。
おわりに
読み研のいう「構造よみ」とは「構成よみ」ではないかという指摘もある。読み研が考える「構造」とは何かを明らかにし、それが「構造」とよぶにふさわしいか、「構成」というのがよいのか、今後の課題である事を最後に述べておく。
【注】
1・2 大西忠治『文学作品の読み方指導』 明治図書 1988年
3 「生活指導」1979年1月号
4 阿部昇「プロットの転化としてクライマックスを捉え直す」読み研研究紀要? 2001年
5 渋谷孝「近・現代小説の教材性の崩壊」読み研研究紀要? 2002年
6 読み研通信81号
プロフィール
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